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幕間「蝶と狐」

 午前二時。

 ガット本部内にある、四方を清潔な白で統一された立方体状の部屋。


「……」


 その中に置かれた白いベッドの上で、それまで毛布を羽織り静かに寝息を立てていたシェリル・ヴェーノは、その時になって不意に目を覚ましたのだった。


「ん……」


 眠たそうに目をこすりながら、ゆっくりと上体を起こす。

 同時に腹部から何らかの違和感を覚え、眉を顰める。


「……」


 おもむろにベッドから降り立ち、ゆっくりと首を回して意識の覚醒を促した後、出入口に向けて早足で歩き出す。

 ドアの前に立つ。鍵はかかっていなかった。音を立てないように慎重にドアノブを回す。

 そのまま押し開き、外の通路にシェリルが出る。外も室内と同様に照明が落とされ真っ暗であった。廊下の一面に塗られた朱は、今は闇に飲まれて黒くくすんで見えた。


「あそこは確か、この方角に……」


 その廊下の中を、脳内に記憶していた地図を頼りにして、シェリルが壁に手を当てて進み始める。足取りは重く、その姿は灯りも無しに未踏の洞窟をおっかなびっくり進んでいく探検家の様にも見えた。

 そしてある程度廊下を進み闇に目が慣れてきた頃、シェリルは前方にT字路を視認した。それはシェリルから見て前と右にそれぞれ分岐した作りになっており、そして記憶によれば、彼女の目指す場所はここを右に曲がった先にあるとされていた。


「思っていたより長い……随分と不便な物ですね……」


 歩を進めながら、何かを我慢するかのように顔をしかめてシェリルが漏らす。真っ直ぐに立ちながらも額から汗を流し、その表情はどこか焦っているようにも見えた。

やがてもう少しで曲がり角に差し掛かろうとしたその時、シェリルは曲がり角の先で『それ』を見た。


「……え?」


 声を漏らし、思わず足を止める。自分には時間がないと言う事もすっかり忘れ、意識を目の前の『それ』に集中させる。


「あれは……」


 毛。

 使い込まれた筆のように真ん中が膨らんだ小麦色の毛の塊が、曲がり角の向こうでゆらゆらと揺れていたのだ。

 大きさはシェリルの身長と同等。それだけに、その毛の塊は嫌でもシェリルの目についた。

 そんな毛の塊が、まるで海の流れに乗るかのように、ゆらりゆらりと、まるでシェリルを誘うかのように揺れていた。

 シェリルにとって、それは見たことのない不思議な物だった。


「あれは、いったい……」


 その未知の光景を前にして、呆然とシェリルが呟く。するとそんなシェリルの眼前で、突然その毛の塊が吸い込まれるようにして通路の奥へと消えていった。


「な……!」


 反射的にシェリルが後を追う。宵闇の中を全速力で走り、T字路の中央に来た所で通路の右側を振り向く。

 何もなかった。


「え?」


 何者かの気配はおろか、床の上に毛が抜け落ちていたという事も無かった。

 ……はじめから、何もいなかった?


「……」


 疲れていて幻を見たんじゃないのか。なんの痕跡も見当たらない眼の前の光景を前にシェリルはそう思い、何度か目を瞬かせて腕で目をゴシゴシとこする。

 再び目を開ける。やはり何の気配も感じないし、姿も見えない。


「疲れているのかしらね……」


 やっぱり幻だった? そんな考えが頭を支配し始め、全身を疲労と脱力感が襲う。同時に体の奥底で疼きを感じ、自分には時間が残されていないと言う事に改めて気づく。


「――まずい、早くしないと!」


 腹に両手を押し当てて前かがみになり、シェリルが早足で目的の場所へと向かう。

 そして目的地へと向かうその間、シェリルはあの時見た光景を――幻だというのに――頭の中から忘れられずにいた。





「と、言う事がありまして……」

《なるほどな》


 次の日の朝、シェリルはその深夜に遭遇した奇妙な体験を、ガット内部にある盗聴防止装置の付けられた公衆通話専用スペース――外見は普通の電話ボックスだった――に据え付けられた電話を使って、受話器の向こうの相手に打ち明けていた。そしてその話を聴き終え、シェリルの会話主が重々しく頷いた。


《気配も証拠も無い。しかし幻覚と切り捨てるにはどこか引っかかると、そういう事か》

「はい。このような場合において真相を明らかにするには、いったい何が最善の策なのでしょうか?」

《ううむ……すまん。これと言って対策が思いつかん。もう一度実物に会うのが手っ取り早いのだろうが、そんな旨い話もそう簡単にはいかないしな……役に立てなくて本当にすまない》

「いえ、そんな。これはそもそも、朝早くから無茶な事を聞いた私の方に非がありますから。隼さんこそ、このような私の話を最後まで聞いていただいて、ありがとうございます」

《い、いや、何もしてないのにそんなに改まって礼を言われても、何だか照れるな……》


 礼儀正しさと優しさに満ちたそのシェリルの言葉に、その電話を受け取った相手――隼が受話器の向こうでくすぐったそうに返した。満更でもなさそうだった。

そしてそれを受けたシェリルが「いえいえ、本当に感謝しているんですよ?」と芝居がかった口調で悪戯っぽく返すと、隼が「だから、そういうのはやめてくれ」と苦笑交じりに答える。そんな二人の会話の様子は、とても親密で和気藹々とした物だった。





 何の前触れも無しに、シェリル・ヴェーノが早朝に自分に対して電話をかけてきた。

 言うまでもなく、これに対して隼は当初大いに驚いた。対するシェリルの方も、あまり接点のない相手との、しかもアポ無しの会話ということで、初めの内は緊張でガチガチだった。そんな二人であったので、通話を始めてから暫くの間は、互いにどこか謙虚と言うか遠慮し合っている節があった。

 だが話を進めていく内に、お互いはお互いの持つ『良さ』――人の良さ、気の良さ、性格の良さ――に気づきあい親近感を覚えていった。そして今ではこのようにすっかり打ち解け、互いに冗談を言い合えるまでに仲良くなっていたのだった。

 また当然ながら、隼は電話を受け取った時に真っ先に「なぜ私なんだ?」とシェリルに尋ねた。それに対してシェリルが「ルカさんが『隼さんは良い人だよ』と教えてくれましたので」と笑顔で返したので、隼はそれ以上追求することを止めた。

 そしてそんな状況下で二人の会話が始まり、前述の通りの紆余曲折を経て今に至ると言う訳である。





《私にその相談を持ちかけてきたのは、知った者の中では私がガットに一番明るいからと言う訳か》

「はい。こちらの方達は、余所者の私にとても良くしてくれているのですが、それでもまだ何と言うか、踏み込んだ話が出来るほど親しくなりきれていないと言うか……」

《気にする事はない。お前はそこに来てまだ日が浅いんだ。焦らないでこれからゆっくり親しくなっていけばいいさ。それにもしもの事があったら、今みたいに遠慮なく私達に話してくれればいい……その、今回はあまり役に立てなかったが……》

「いえ、そんな。相談に乗ってくれただけでも感謝の極みです。ありがとうございます――それでは」

《ああ。頑張れよ》


 そう会話を交わした後で、シェリルが受話器を本体横にあるフックに掛ける。受話器の重みでフックが下がり、回線切断を告げる高い電子音が鳴る。その音が消えるのを待ってから、シェリルは回れ右をしてボックスのドアを開いて外に出た。





「あ、シェリル・ヴェーノだ」


 通話スペースから外に出た辺りで、シェリルは自分の名前を呼ぶ女性の声を聞いた。驚いて横を向くと、そこには黄緑色の作務衣を身に纏い、手を振りながら大股で近づいてくるメア・オクトフェストと、前に手を組んでそのメアの傍らにぴったりとくっついた一人の女性の姿があった。

 その女性はメアよりも一回り背が高く、見た目の年齢は二十代後半といったところか。腰まで届く銀色の髪を具え、かつて自分が着ていたのと同じ着流しを身に纏っていた。

 やがてメアと女性が揃ってシェリルのすぐ前に立ち並ぶ。シェリルはそれまで傍らの女性に向けていた意識をメアの方へと変更し、彼女に向けて言った。


「あなたは確か、キリカ派の……」

「うん。メア・オクトフェスト。よろしく」


 そう軽く返してメアがさり気ない動作で手を差し出す。突然の事に若干面食らったシェリルだったが、すぐに落ち着きを取り戻してその手を握り返す。

 そして互いに手を離した後で、シェリルの顔をまじまじと見つめながら軽い口調でメアが言った。


「いやー、こんな所であの『最大戦力』シェリル・ヴェーノに会えるなんて、人生何が起こるかわからないね。サイン貰っていいかな?」

「は、はあ。それは別に構いませんが……それより、そちらは?」

「え? ああ、こっちの人? やっぱり気になる?」


 そう言ってメアが視線だけを動かして横の女性に視線を向ける。フランクな口調を崩さないままメアが続けた。


「えーっと、要約するとね……私の監視役、かな? 名前は確か……」

「吉音よ」

「ああ、そうだったそうだった。倶定吉音だ。この人は倶定吉音って言うんだよ、シェリル」

「は、はあ」


 メアの言葉にシェリルが弱々しく返す。シェリルは完全にメアの勢いに負けていた。

 そんなメアのペースに終始圧倒されっぱなしのシェリルに、吉音が少し前に出て軽くお辞儀をした。


「倶定吉音よ。よろしくお願いね」

「シェリル・ヴェーノです。こちらこそ、よろしくお願いします」

「おいおい、二人とも固いぞー。もう少しリラックスしないと人生損だよー?」

「……あなた一応捕虜なんだから、もう少し緊張感を持った方が良いと思うんだけどねえ……?」

「それよりシェリルさ、さっき何話してたの?」

「聞けよ」


 自分の忠告を無視して親しげに――馴れ馴れしいほど親しげにシェリルに尋ねるメアの姿を見て、吉音が盛大にため息をつく。それを見てシェリルが小さく苦笑した後、メアの方を向いて言った。


「いえ、特にこれと言って大きな事では無いのですが……昨日私が体験したことについて、私の友人の知り合いの方と相談していた所なのです」

「へえー、体験ねえ? シェリル・ヴェーノの体験……興味湧いてきた」


 メアの京楽主義にスイッチが入る。目を輝かせてシェリルに詰め寄る。


「具体的に何したの? 教えてくれない? ねえ、いいでしょ?」

「ちょっと、いい加減になさい。そうやって無理矢理聞き出そうとするのは良くないわよ?」

「いえ、お気づかいなく。私もこれについて話がしたい所でしたから」

「え、ちょ」

「ほーら、シェリルもこう言ってる。吉音の負けー」


 自分の好意をシェリルにやんわり断られ、メアに盛大に煽られた吉音が再び大きくため息をつく。その吉音を無視してメアがシェリルに言った。


「でさ、何を話してたのよ?」

「はい。実は……」





「狐、ねえ……」


 シェリルから事の顛末を聞いたその日の深夜、メアはシェリルが『それ』に遭遇したとされる通路を歩いていた。そして欠伸を噛み殺しながら、後ろに続いていたシェリルと吉音に聞こえるように迷惑にならない程度の大きな声で言った。


「その『狐』ってフサフサの奴、いったいどんな奴なんだろうね?」

「さあ、私もこちらに来て日が浅いので、詳しいことは全くわかりません。動物だとは言っていましたがそれがなんなのかまでは……」

「そしてそれを知りたくて私の調査に乗ってきた、と。シェリルってさ、意外と根性あるよね」

「いえ。それを実際に見たいと言ったメアさんには敵いませんよ」

「本当、たまったもんじゃないわよ」


 シェリルの謙虚な言葉に続くようにして、嫌そうに顔をしかめた吉音が口を開いた。


「だいたい、たかが狐のために、なんで私達がこんな事しなきゃいけないのよ」

「ここの頭領さんからやれって言われたからじゃない?」

「その頭領から面と向かって『調べてくれ』って言われるような状況を作ったのはどこの誰かしら?」

「それはほらあの人だよ。蝶々とか言う人」

「その蝶々さんに事情をベラベラ話したのは誰?」

「私かなー」


 まったく悪びれずに言ってのけるメアに、吉音が泣きそうな顔を浮かべて頭を抱える。


「こいつに何かまともな反応を期待したのが間違いだったわ……」

「ま、まあまあ。過ぎたことは仕方ありませんよ。とにかく今は、調査の方に集中しましょう」

「そーそー。あんまり頭に血昇らせてるとハゲるよ?」

「――ッ!」


 額に血管を浮き上がらせて歯を食いしばり、吉音がメアの後頭部を睨みつける。その一触即発の様子を横で見ながら、シェリルはなぜこうなったのかを思い返していた。





 通信室でシェリルがメアと吉音を相手に自分の経験談を話していた時、外からやって来た蝶々がその輪の中に割って入ってきたのがそもそもの始まりだった。


「あら、何だか楽しそうですね。吉音さん、三人で何をしているのですか?」

「ち、蝶々様!?」


 純粋な好奇心からそうにこやかに話しかけてきた蝶々だったが、吉音はそれを、彼女は自分の監視役としての管理不行き届きを咎めに来たのだと受け取った――大いに誤解した。そして蝶々の方を向き顔を真っ青にして、目いっぱいの謝意を伝えるべく吉音が叫んだ。


「誠に、非常に申し訳ありません! やはりメア・オクトフェストを必要以上に自由にさせるべきではなかったのでしょうか!? それとも同郷の士であるシェリル・ヴェーノと接触させるべきでは――」

「あらあら、私は別に咎めるために来たのではありませんよ? ただちょっと、面白そうだなあ、と思いまして」

「……へ?」


 そこで毒気を抜かれる。蝶々が続けた。


「第一、メアさんとシェリルさんを自由に歩かせていいと仰ったのは、頭領ではないですか。自由の程度について、一応の監視役であるあなたが責任を感じる必要はありませんよ?」

「……」

「早とちり」


 恥ずかしさと屈辱で、吉音はその場で完全に石化した。メアの軽口さえ耳に届いていなかった。

そんな口を半開きにしたまま硬直した吉音を放置して、蝶々が残りの二人に話しかけた。


「それで、あなた方は何を話していたのですか?」

「……いいのですか? 吉音さんをほうっておいて」

「彼女は少し、職務に真面目というか、融通が利かない部分があるのです。こういった事は日常茶飯事なのですよ。まあ、そんな所が可愛いのですが……じゅるり」

「ひっ」


 何か聞いてはいけない物を聞いてしまったかのような気がして、シェリルが短い悲鳴を漏らす。するとそのどちらにも気づくこと無く、メアが蝶々の前に出て言った。


「え、なになに? 蝶々さんも聞いてみたいって感じっすか?」

「ええ、それはもう。ぜひとも聞いてみたいです」

「じゃあ話しますよ。話しちゃいますよ。怪綺談言っちゃいますよ?」


 さも自分が経験したことであるかのようにメアがそう言ってのけ、その後も自分が当事者であるかのごとく話を始める。シェリルはもう突っ込むことを諦めた。

 そして全てを聞き終えた時、蝶々が顔を輝かせてメアに言った。


「ああ、それは多分『狐』ですね」

「キツネ?」

「こちらの世界に存在する動物です。四本足で歩いて、尻尾やら耳やらがフサフサしててとっても可愛いんですよ。もう食べちゃいたいくらいに」

「ひっ」

「ほ、ほほう、食べたいくらいに……それはとても、何と言うかとても面白そうな……」


 蝶々の言葉を聞いて、メアが目を輝かせる。そしてメアが口を開こうとして、


「深夜にその場所に行って、狐を見てみたい。ですか?」


 メアの言葉を先読みした蝶々が、満面の笑みで得意気に言ってのける。

 メアが言葉を詰まらせる。

 あ、断られるな。シェリルが予想する。

 だが蝶々の行動はシェリルの予想を裏切った。


「行ってもいいと思いますよ」

「マジで!?」

「マジです」


 メアの瞳に輝きが戻る。聖母の如き笑顔を見せながら蝶々が続ける。


「あ、でも、一応頭領には確認を取っておいてくださいね。なんなら、今から頭領の所に向かいますか? 私が案内しても宜しいのですが」

「もちろんもちろん! ぜひお願いします! ほら、シェリルも吉音も行くよ!」

「は、はい」

「え……うえ? うええ?」


 そうしてシェリルとそれまで石化したままだった吉音を連れて、蝶々の案内の下でメア達は頭領である狭山の元へと向かったのだった。


「狐? いいよ、探してきても」


 狭山との交渉は四十秒で終わった。


「よーしキツネ! キツネ待ってろキツネーッ!」





「ここの頭領――狭山さんって、意外と軽いんですね」

「まあ、フランクさが特徴の人なんだけどね」

「さすがにあれは、軽すぎというか……それより、吉音さん」

「ん?」


 メアの後ろを横並びになって歩きながら、シェリルが吉音に尋ねた。


「吉音さんは、キツネを見たことはあるんですか?」

「まあ……それは何回かあるかな。ここで見たことは一度も無いんだけど」

「そうですか」

「なら吉音にとっても、これは決して無駄ではないって事になるわね」


 前を向いたままメアが言った。ムッと表情を曇らせて吉音が返す。


「どうして無駄じゃないって言えるのかしら?」

「だって、吉音はこっちでキツネを見たこと無いんでしょ? だったら、これが生まれて初めての『ここでのキツネ鑑賞』になるじゃない」

「いや、狐は普通ここで見るもんじゃないから」

「え? そうなんですか?」

「……ああ、そういえばあなた達って、こっちの世界の人間じゃなかったのよね」


 自分の言葉に対してそう真顔で返してきたシェリルを見て、改めて吉音が彼女たちの出自を思い出した。

 と、不意にメアが足を止める。突然の事だったので、後ろの二人が思わず前につんのめる。


「え、メアさん?」

「ちょっと、どうしたのよ」


 口々に疑念と不満を漏らす二人を手で制する。そして無言のまま、メアが前方を指さす。


「……?」


 その指の方向へと視線を移していく。そこにある物を見て、二人が言葉を失う。

 毛の塊。

 人間ほどのサイズを持った、毛筆のような小麦色の毛の塊。それが曲がり角の向こうでゆらゆら揺れていた。

 話し合っている内に、三人は既に目的の場所へとたどり着いていたのだ。そして幸か不幸か、『それ』は昨日同様、確かにそこに存在していた。


「……シェリル」


 メアが小声でシェリルを呼ぶ。黙ってシェリルがメアの傍まで近寄る。


「気配消せる?」


 シェリルが無言で頷き、その場で囁くような声で呪文を唱える。

 直後、何か薄い膜のような物が服や肌に貼り付き、それによって全身が包まれていく感覚を三人が覚えた。

『気配』の『消去』。

 前方の毛の塊はそれに気づいてはいないかのように、曲がり角の先でゆらゆら揺れていた。

 暫くして、シェリルが片手でOKサイン――ルカから教わった――を作る。二人が頷き(それについて聞いてはいなかったが、メアもその意図には気づいていた。ボディランゲージは偉大である)、メアを先頭にしてゆっくりと進んでいく。

 やがて曲がり角のすぐ傍まで近寄る。毛の塊はまだ揺れていた。


「……いい? 行くよ?」


 メアが言い放ち、後ろの二人が揃ってメアの肩を叩く(ボディランゲージは偉大である)。

 一度唾を飲み込み、興奮に逸る心を抑えこむ。そして意を決して、メアが一息にT字路の分岐点に躍り出た。


「……!」


 直後、そこにある物を見上げてメアが言葉をなくした。メアに続いた二人も揃って口を開いてその場に硬直する。


「吉音さん……」

「これが、キツネ……?」


 異界出身の二人が同意を求める。それを吉音が首を左右に振って返す。


「……同じだけど、違う」


 外見は狐だった。


「こんなでかくない」


 サイズの問題だった。

 寝そべっているというのに、その体勢の時点で通路全てを収まりきってしまうほどの小麦色の巨体。

 前方に突き出された前足には鋭く光る三本の爪。上唇をずり上げ、そこから鋭い歯の列が見えた。辛うじて開かれていた細長い目には、金色に光る瞳がギラギラと危険な輝きを放っていた。

 曲がり角から突き出されていた毛の塊は、背中から生えた尻尾を途中で丸め、前に向けた際に曲がり角からはみ出してしまった物。

 何もかもが規格外だった。全然可愛くない。

 自分に言い聞かせるように、再度吉音が言った。


「こんなでかいの、狐じゃない」


 その時。


「――!」


 狐のようなモノが両目を開き、真っ直ぐにメアたちの方を睨みつける。

 三人揃って目をそらす。

 圧倒的な威圧感。そこに未知のものに対する恐怖感も上乗せされ、もはやその眼光を直視することは出来なかった。

 そして、三人が同時に顔をしかめて目を背けていた時、

 狐が。


「――誰だ」


 狐が、口を開いた。


「……魔法か。そこにいるのは誰だ?」


吉音さんは苦労人ポジションです。

後編に続きます。

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