第八十四話「キール・ボルトの憂鬱」
キール・ボルトは、ごく普通の家庭に生まれた一般的な少年だった。
ルカやベリーのように波乱万丈な半生を生きてきた訳ではない。シェリルのように特別な立場にある訳でもない。父は専業主夫。母は自らの魔法を使って傷病者を手当てする魔導看護員と、彼の両親はやや特殊ながら派手さの薄い堅実な家庭を形成していた。
キールはそんな一般家庭の一人っ子としてこの世に生を受け、今に至るまで親の愛を一身に受けて生きてきた。ちなみにキールは後の適性試験で回復魔法に特化した能力を持っていると言う事がわかったのだが、これは母親の遺伝によるものだと推測された。
とにかく、キールはこれといって特徴のない、『その他大勢』の者達と同じ、平凡な境遇の下にいたのだ。そんな彼が唯一他の人間と違う所といえば、ルカやベリーと言った、いわゆる『一般的な生徒』とは趣を異にする者達と親しくしていると言う所だった。
キールはそれを鼻にかける事はしなかった。ベリーやルカと対等に付き合っている自分は、他とは違う特別な存在だと思い込む事も無かった。
寧ろ『普通』だからこそ――何の障害も経験する事なく生きてきたからこそ、自分は一生ベリー達の抱える痛みや苦しみを理解することは出来ないのだろうと思い悩んでいた。
そしてそんな風に相手のことを真に理解できていないくせに、表向きでは平然と友人面をして彼女たちと接している。キールはそんな自分に嫌悪感を抱いていた。
だがキールは、そんな自分の悩みはおくびにも出さなかった。どうしようもないその感情を心の奥底に封じ込め、周囲には何の悩みもないように振る舞いながら日々を過ごしていた。
日々平凡に過ごすことが、安全に一日を送る秘訣であるとキールは確信していたからだ。ルカと一緒にいる時点で平凡と言うにはあまりに陰湿な仕打ちを受けた事も一度や二度ではなかったが、それについては敢えて気にしないようにしていた。
そしてそんなキールの努力は、今日においても変わることは無かった。だが、最近何の前触れもなしに、全てを打ち明けてもいいんじゃないかと思うようにもなっていた。一人で抱え込むのが限界に来ていたからなのか、それとも友達に甘えたいからなのかはわからなかった。
抑圧と解放。相反する二つの考えが頭の中で渦巻く。だがそんな事を内心考えつつも、キールは外見はいつも通りクールに振舞っていた。
「『ザンジ・リッツ、文化享受論を提唱し国外追放』……思い切ったことするなあ」
早朝、ホームルーム前の教室にて、キールは家から学園に持ち込んできた新聞を自分の机の上に広げ、平静の顔を取り繕いながらその内容を読み進めていた。学園内で新聞を読んでいたのは、以前ベリーに新聞を読んでないことをなじられたからである。
「魔族の文化の受け入れねえ……本当に成立したら、どれだけ凄い事になるのやら……」
記事を眺めながらキールが無関心そうに呟く。
教室のドアが勢い良く開かれ、ドアの向こう、廊下の中央にベリー・カーチスが姿を現したのは、まさにその時だった。その制服は所々が煤け、すらりと伸びた手足の至る所に痣や切り傷が生々しく刻まれていた。
だが当のベリーは自身の傷や汚れ、そして自分に向けて一斉に突き刺さる他人の視線を気にする素振りも見せず、腕を組みながらよく通る声で言った。
「ごきげんよう、キール。今日も清々しい朝ですわね」
「ベリー……!」
その姿を認めたキールが一瞬驚き、そしてすぐに物悲しげに表情を曇らせ、そして周囲の好奇の視線を跳ね除けるように毅然と立ち尽くすベリーに向かって足早に歩き出した。
そんな二人を、回りの人間はただじっと見つめるだけだった。助けようともしなかった。キールにしてもベリーにしてもそれはいつもの事だったので、気にする素振りは少しも見せなかった。
やがてキールがベリーの真正面に立ち、そのベリーの腹の辺りに両手を軽く押し当て、小さい声で呪文を唱える。
「風よ。命の風よ。彼の者の身内に流れ全てを癒やせ」
キールが詠唱を終えると同時に、掌から緑色の輝きが溢れだしていく。その輝きは心臓の鼓動のように小刻みに明滅を繰り返しながら肥大化していき、やがてキールの手とベリーの腹部を諸共にその輝きの中へと飲み込んでいく。
そして光と接触した腹部を起点にして、キールの魔法によって回復能力を備えた魔力がベリーの体内に入り込み、そのまま全身へと伝播していく。そうやって体内に入り込んだ魔力は即座に対象に作用し、その身に負わされた傷や体内に蓄積していた疲労を根こそぎ治癒していくのだ。
「またやられたのかい?」
そうした一連の治癒作業を行いながら、キールが落ち込んだ様子でベリーに尋ねた。対するベリーはまるで気にしていないと言わんばかりに髪をかき上げ、うんざりした口調でそれに答えた。
「ええ。どれだけ叩いても、身の程知らずと言うのは湧いて出てくる物なのですわ」
「まったく、どうしてこう馬鹿な事をする奴がいるんだ? 僕たちは何もしてないって言うのに……」
「何もしていないと言うのは少し違いますわね。なにせ私たちは、あのルカ・ベルトリオと一緒に行動しているのですから」
「それだけの理由で?」
「それだけで十分だと言う者も、少なからず存在すると言う事ですわ」
魔法は『使えて当たり前』という価値観が一般化しているレビーノにおいて、魔法が『一切使えない』と言うルカ・ベルトリオの存在は、この世界最大のイレギュラー要素であった。そして『こちら側』と同じくレビーノの人間もまた、その大多数が自分とその他大勢が共有する価値観から大きく逸脱した存在を許容する事が出来ないでいた。
レビーノの人間にとってそれは魔族であり、この学園近辺の人間にとっては、それはルカであった。
そのルカと親しくしている。友達の関係を続けている。
理解できない。
ルカに対して抱いていた敵愾心がキールとベリーに向けられるのも無理からぬ話であった。
そしてその大半は陰口や仲間はずれで終わらせる。だが時々、こうやって直接暴力で排除を目論んでくる者も少なからず存在するのであった。
「馬鹿馬鹿しいにも程がありますわ」
そんな風に自分たちに突っかかってくる連中を、ベリーはその一言でバッサリと切り捨てた。
「他人を認めることが出来ないどころか、そんな自分の欠点を棚に上げて、あまつさえ自分たちが正しいとばかりに私たちに詰め寄ってくる。その上返り討ちに遭っていたのでは、もはや笑うことも出来ませんわ」
「ああ、今日も勝ったんだ」
「当然ですわ」
ベリーの魔法の実力は、学園内でもトップクラスの物だった。彼女の放つ電撃の力に抗しうる事が出来るのは、生徒はおろか教師の中にも数えるほどしかいなかった。そんなベリーの実力を知るのは、ほんの一握りの人間だけだった。
ただ、その強すぎる力と普段の高圧的とも取れる態度が、ルカと一緒にいるという点以外で彼女に対する悪意を高めている一因にもなっていた。当の本人はまるで気にしていなかったが。
「突っかかる方も悪いけど、やっぱりベリーももう少し大人しくした方がいいよ。そうすればそんな風に傷だらけになる事も無くなるしさ」
治癒を終えて緑色の光を雲散霧消させ、両手を引っ込めながらキールが強めの口調で言った。だが傷の癒えたまっさらな腕を持ち上げじっくりと眺め回しながら、ベリーはそんな友人の好意から来る言葉にすげなく返した。
「今更このスタイルを変える気はありませんわ。この性格はいわば、私が新たに生まれ変わった証なのですから。誰かにとやかく言われる筋合いはありませんわね」
「……そう言われると、僕は何も返すことが出来なくなるんだけどさ……」
「……やっぱり優しいわね、キールは」
「ちょ、途中でキャラ変えないでよ。びっくりするだろ?」
ベリーが一瞬だけ『シン』の――家族と友達にしか見せたことのない本当の自分の顔を露わにさせ、その顔で優しく言葉を放ちながらキールをじっと見つめて彼を狼狽させる。
ベリーの複雑な事情を知っているキールは、だからこそそんなベリーの悪戯にも笑顔で接する事が出来ていた。いや、ベリーの半生を知っている者はキール以外にもそれなりに存在していたが、そんな中で彼女の悪戯を受けるのも、その悪戯を笑ってやり過ごせるのも、その中ではキールとルカだけであったのだ。
そして狼狽えるキールの様子を一通り満喫した後、小さく咳払いをして『ベリー』に戻る。そして以前通りのプライドの高い口調でベリーが言った。
「とにかく、私はこの言葉遣いを止める気はありませんので。いくらキールの頼みと言っても、こればかりは止めるつもりはありませんわ」
「またそんな意地を張って……」
「くだらないと思うのならどうぞご自由に。私は己の矜持を曲げるつもりはございませんわ」
「そう言う事ばっか言ってると、またどっかから変なイチャモンつけられ」
「ベリー・カーチスはいるか!」
耳をつんざく程の怒声がキールの言葉をかき消した。
驚いて二人が声のする方を見ると、自分たちが居るのとは反対側の教室のドアが乱暴に開かれ、その前に数十人の生徒が固まって立ち尽くしていた。
「奴はどこだ! まさか逃げたとか言う訳でもあるまい!隠しても何の得にもならんぞ!」
その中の一人が、先ほどと同じ声色で叫びだす。
キールは鈍い頭痛を感じ始めていた。
それから数分もしない内に、ベリーとキールは例の集団に発見され、今こうして屋上まで連れてこられていた。
状況は最悪だった。
屋上のド真ん中まで歩かされたキールとベリーは、そこで三十名超の生徒たちに回りをぐるりと取り囲まれ、逃げ場所を完全に塞がれていたのだった。一時限目の開始を告げる予鈴が高らかに鳴り響いていたが、もはやここまで来た彼らには関係ない事であった。
「それで? 私たちをここに連れてきて、いったい何がしたいのかしら?」
しかしその状況下において毅然と腕を組み、回りを睨み回しながら物怖じせずにベリーが言い放つ。その予想以上の度胸に彼女らを取り囲んだ集団がやや尻込みする中、その集団のリーダー格と思しき男――熊のような巨漢が一歩前に出ながらそれに答えた。
「知れたこと。お前たちが学園の和を乱すからだ」
「学園の和?」
「ルカ・ベルトリオと友人関係でいると言う事だ」
何の疑問も持つことなく、目の前の熊が自信満々に宣言する。
「奴は、ルカ・ベルトリオは、魔法育成を信条とするこの学園に必ず要らぬ混乱を齎す。その混乱を生み出すような元凶と一緒にいるだけで、お前たちも同罪なのだ。本当はルカ・ベルトリオも呼び出しておきたい所だったが、まあ良い……贖罪はお前たちでも出来るのだからな」
前に反対側のドア付近で聞いたのと同じ声が朗々と響き渡り、そしてその声に合わせて周囲の人垣も口々にルカやベリー、そしてキールの誹謗中傷をぶつけてくる。
ルカとくっついているだけで非難を浴びる。ある意味では恒例行事だ。
様々な罵声が容赦無く体に突き刺さっていく。だがこの時、ベリーとキールは自分たちの身の安全ではなく、ここにルカがいなかった事に対しての安堵の気持ちを真っ先に抱いていた。
レビーノではルカ・ベルトリオの学園の長期欠席の理由について、「彼女は『魔法を使えるようになるための特別講習プログラム』に参加しているため、暫くこちらに戻ってくることは無い」と説明されていた。流石に古代の魔法を使って異世界に飛んでいったなどという非常識な物をそのまま公表する事は無謀だと考えたからだ。
そしていつもなら自覚すると共に一抹の寂しさを感じていたはずの『ルカ不在』と言う事実を、今この時ほど有難く感じることもなかった。こんな所にルカを呼んでも、なんの得にもなりはしないからだ。
またそれ以外に、ベリー達が四方八方から来る罵声に注意を払わなかったのにはもう二つ理由があった。一つは、前にも言ったように今まで散々悪口を叩かれてきたためにそう言った物に対する『慣れ』が出来てしまっていた事。
そしてもう一つは――
「……下らないですわね」
「ちょっと離れてた方がいいかな?」
「ええ。それとわかっているとは思うけれど、出来るだけ姿勢を低くしていなさい。巻き添えを食らっては冗談では済みませんので」
「おい。お前、いったい何を言っている?」
訝しむ熊男の言葉を無視して、ベリーが右手を伸ばし人差し指を天高く突き上げる。
「雷よ。イカズチよ。障害の全てを焼き払え。我が眼前の敵を打ち砕け」
指先から一筋の黄色い光がまっすぐに伸び、やがて吸い込まれるようにして空の彼方へ消えていく。
直後、それまで青一色だった空が一瞬だけ黒く濁る。キールがその場にしゃがみ込み、両手で頭を抱える。
「な、なんだ?」
その空の変化は、それまで悪口ばかり叩いていた周囲の生徒たちがその活動を中止し空を見上げるくらいはっきりとしたものだった。
この時彼らは立ったままだった。手遅れだった。
「射抜け!」
ベリーが空高く伸ばした手を勢い良く振り下ろす。




