第八十二話「親子:前編」
レビーノの夜は、細かい所を除けば『こちら側』の世界と大して違いは無かった。
豆粒ほどの星々が暗闇の中に散りばめられ、天高く昇る月が、自ら放つ淡い光でもって眠りに沈む者達を優しく照らす。
それは『こちら側』と殆ど変わらぬ静謐な夜の姿。違いと言えば、夜闇に浮かぶ月が二つあるという所だった。
一つは静かな白。もう一つは穏やかな赤。二つの月の放つ二条の光が、レビーノで眠る者を須らく包み込むのであった。
「……」
しかし、その様な冷たく暖かいレビーノの夜の中で、ベリー・カーチスはベッドに入ったまま一人寝つけずにいた。
「……」
目が冴えきっていた。
仰向けの姿勢で毛布を鎖骨の辺りまで羽織りながら、升目状に線引きがされた天井をじっと見つめる。
寝よう寝ようと思えば思うほど、ますます意識が覚醒していく。だがそれは、ベリーにとっては決して馴染み薄い物ではなかった。
「……」
不安。
『元』孤児ゆえの、漠然とした不安。
ベリーは拾われてから今に至るまで、不規則な周期でその不安に全身を支配される事があるのだった。
「……」
ベリー・カーチス――シン・デステロスは、物心ついた時から一人だった。
元の両親に関して持っていた記憶は、自分を『ゼトル』――レビーノの極貧者や世間から弾かれた者達が集められるスラム街――の道端に置き捨て、馬車で去っていくその後姿だけ。親の名前も顔も覚えてはいなかった。
シン・デステロス。自分の名前は覚えていた。だがそれは、これからの彼女の生活には何の意味もない物だった。
十年。彼女のサバイバルは続いた。
ゴミを漁り、物乞いをし、時に同じ境遇の子供たちと群れをなし、時に別のグループを襲撃して糊口をしのいだ。
誰もが生きるので必死だった。自分が生きるために、グループ内でも小競り合いが毎日のように起きた。寝首を掻かれるのは御免だったので、シンは基本的に一人で行動するようになった。
屋根と壁が腐り朽ち果て、饐えた匂いを発するまでになった木造の一軒家が彼女の城だった。雨風はそこで凌いだが、完全に遮断できるわけではなかった。
毎日が綱渡りの生活。野垂れ死にすることはなかったが、惨めな事に変わりはなかった。
転機は十五の頃に訪れた。
無駄なエネルギー消費を抑えるために道端の隅にうずくまっていたシンを、今の彼女の両親――ベン・カーチスとアルエ・カーチスが見つけたのだった。
そうして彼女はセクセントのカーチス家に拾われていった。そして彼女はそこで新たな家と学園生活、ルカとキールと言う本当の『友達』、そして『ベリー・カーチス』という新しい名前を手に入れたのだった。
「……」
自分は救われた。
少なくとも、あの頃よりは何万倍もマシな状況にいる。
それでも――だからこそ、不安になる。
「……なぜ」
なぜ私は拾われたのか?
なぜ私なのか?
私は本当に愛されているのか?
本当の愛とは何なのか?
本当の家族って――
「私、ここにいていいの?」
ここにいていいのか。何度も両親に聞いた。二人は真剣な顔で「当たり前だ」と言って、その華奢な体を優しく抱き寄せた。
しかしそれで不安は消えない。一時的に心の奥底に押し込められるだけで、時が来れば再び鎌首をもたげるのだ。
腕で両目を覆い隠す。不安が心の飽和量を超える。
「わたし、わたし――」
『シン』は、声を殺して泣いた。
シンが枕を泣き濡らすより八時間前の事。
「あの時は、すまなかった」
ガット本部を離れ真弓とノワールを彼女たちの本拠へ送り届けてから自分たちの自宅に帰ってきた後のこと。それまで一言も発することの無かった隼が、三人揃ってリビングに上がった所でそう大悟に言ったのだった。
「私もあの時は反射的というか、我を忘れていた節があって……とにかく、変な事をしてしまって申し訳ない」
「謝らないでくださいよ。隼さんがああ言ってくれた時、俺、凄い嬉しかったんですから」
「そうですよ。隼さんは変な事してませんって。あの時の大男の方がずっと悪かったですから」
大吾だけでなく、ルカも助け舟を出して隼のフォローに回る。だが二人からの激励を貰っても、隼は暗い顔のままだった。
そのまま無言で腰を下ろし、テーブルに両腕を置いて顔を俯かせる。
「……私は」
そしてその様子を不安げに見つめる大悟たちに、隼がぽつぽつと話し始めた。
「私は、上手くやれただろうか……」
「上手くやれた?」
「……」
顔を上げ、腑に落ちない顔で呟く大悟を隼が見上げた。
視界に大吾を収めながら、隼はその頭の中で『あの時』の情景を思い浮かべていた。
その軍人が一歩下がった時、大悟は死人のように顔を真っ青にしていた。忘れかけていた――思い出してはいけないと蓋を閉めていた物を全てほじくりだされ、精神の均衡を崩され今にも倒れそうな程に見えた。
当然だ。自分の家族――自分の生活を全て奪った元凶が、自分の目の前に立っているのだ。例えその軍人が直接指示したに無いにしても、大悟にとっては『軍』と言う記号が備わっている者は、等しく全て忌まわしい存在であったのだ。
「狭山め、このために私をここに呼んできたというのか……だが、私の意志は揺るがんぞ」
軍人が何かボヤいていたが、それすらも大悟の耳には届いていないようだった。他の三人もその大悟の様子に気づき、心配するような目で大悟を見守っていた。隼もまた、その大悟の傍へ駆け寄ろうと足を動かそうとした。
だが隼が動こうとした次の瞬間、軍人の放った言葉を聞いた隼は更に愕然とするのだった。
「安藤大悟だな? 私は深海、見ての通り軍人をしている」
「は、はあ。それで、その」
「わかっている。君の言いたいこともわかっている。だが私の言う事もわかってほしい――あの時の決断は、私は間違ってないと思っているのだ」
「え?」
あの行為を、人様の両親を子供の目の前で拉致した行動を、臆面もなく一方的に正当化する発言をしたのだ。よりによってその被害者の目の前で。
意味がわからず茫然とする大悟の前で、深海が演説を続けた。
「彼らの尽力がなければ、世界は、日本は今以上に未曽有の危機に晒されていたのだ。彼らの犠牲には
私も心を痛めている。だが彼らは、この国にとって必要な犠牲だったのだ」
なんだ。何を言っているんだあの男は?
普通は違うだろう?
隼の心に怒りが湧いてきた。
「今の平穏は、彼らの上に成り立っているのだ。だから君も、彼らのことを誇りに思い――」
「普通は謝る所だろうがッ!」
気づいた時には叫んでいた。
それまで得意げに持論をぶちまけていた軍人も、それを聞いていた他の三人も、揃って首を動かして隼を見つめていた。
誰も彼もが驚いていた。当の隼が一番驚いていた。まったくの無意識、反射的に叫んでいたからだ。だが一度行動を開始した無意識は、その意志とは無関係に体を動かし始めた。
「謝っていただきたい」
「な、何の話だ。だいたい君は」
「私が誰だかはどうでもいい。あなたが誰かは知らないし、あなたの言い分もわかる。だがそいつはその事で傷を負っている。それについて、しっかりした謝罪を求めている」
「だから、なんだと言うんだね?」
「少しでもいいから謝ってほしい。彼は深く傷ついている」
「私は、何も間違ったことは」
「謝れって言ってんだよグズが!」
「――!」
その隼の迫力――悪鬼羅刹も逃げ出すほどの眼光と罵声を正面から受け、その軍人は見るからに狼狽した。そして何度も前と後ろを振り返りながら、「し、失礼」と脂汗を流しながら逃げるように立ち去っていった。
誰も何も言わなかった。ただ唖然として、四人が隼を見つめるだけだった。
隼の意識が今に戻る。
「そんなの、決まってるじゃないですか」
見上げた視線の先、大悟が放った言葉が隼を今へと引き戻す。そうして隼の向かい側へテーブルを挟むようにして大悟が座り、隼を見つめながら笑顔で大悟が言った。
「大成功です。凄い格好良かったですよ」
「そ、そうか……あの調子で、良かったのか……?」
「もちろん。俺、凄い嬉しかったです。見ててスッキリしましたから。ルカもそうでしょ?」
「ええ、それはもう。ざまあみろって感じでしたよ」
大悟の振りにそう返しながら、ルカがその大悟の隣に腰を下ろす。
と、二人が揃って座った時を見計らったかのように、隼が目の前の二人に尋ねた。
「親としては、どうだった?」
「親?」
「ああ、親だ。親……母親としては、あんな感じで動くのが最適だったのだろうか?」
「隼さん……?」
「どうなんだろう? あれで正解だったのか?」
そう言う隼を、大悟たちは唖然とした顔で見つめていた。
目の前の隼が、何かに縋るような、許しを乞うかのような、脆く不安定な表情を浮かべていたからだ。それまでの厳格で気丈で大胆不敵な隼からは想像もつかない、弱りに弱った女性の顔を、大悟たちに向けて浮かべていたのだ。
「何か、あったんですか……?」
やがて、恐る恐ると言った感じで大悟が言った。それを受けて、はっとして隼が顔を背けた表情筋を引き締めたが、やがて「もう隠さなくてもいいか……」と呟きながら、その顔のまま再び大悟たちの方を向いた。
「やっぱり、気になるよな……私がここまで拘る理由とか」
「……無理して言わなくてもいいですよ?」
苦しそうに呟く隼に、控えめに大悟が返す。ルカも無言でしっかりと頷く。そんな二人の好意を受けて頬を綻ばせながら、隼が二人に言った。
「いや、話す。ここまで焦らせておいて何も言わないのは生殺しに近いしな。それに、お前たちだって本当は知りたいんだろう?」
「それはまあ……俺だって知りたいですけど……」
「……私も」
「だろう? そして私が自分で話したいと言っているんだ。なら、何の問題もない」
『いつもの顔』で苦笑交じりにそう言ってから、一気に『今の表情』へと戻って隼が続ける。
「……寧ろ、聞いてほしい。私の全部を……」
「……」
頼りなく、弱々しい顔。
「……ダメか?」
断れるわけがなかった。
二人の沈黙を肯定と捉えた隼が、自分の過去を話し始めた。
神埼美鶴。旧姓、高橋美鶴。
それが隼の本名だった。
明るく活発なスポーツ少女だった。
ガットに入ったのは彼女が十四の時だった。切欠は、当時体操クラブに通っていた彼女を、その素質を見抜いたガットのエージェントがスカウトに来た事だった。
二日悩んで、美鶴はガットに行く事を決めた。家を出る際、家族には寮生活をすると言って適当にはぐらかした。
こうして美鶴はガットへと入った。そしてその隣には、美鶴と同じタイミングでスカウトを受けた神崎武人――美鶴の幼馴染の姿もあった。そもそも美鶴がガット行きを決めたのには、武人がガットに行く事を決めたからと言う背景もあったのだ。
美鶴は武人に惚れていた。自分の好意には気づいていないだろうと美鶴は半ば諦めていたが、実は武人の方も美鶴に惚れていた。
お互いがお互いの気持ちに気づいたのは、二人が十九になった時だった。訓練を終え、ヘロヘロになった美鶴が「好きだ」と口を滑らせたのが原因だった。「忘れて」と叫んで、武人を置いて自分がその場を逃げるように離れた事を、隼は今も覚えていた。
その翌日、武人の方から告白してきた。美鶴はそれを受け入れた。それから二人の関係は皆には黙っておこうと約束し合ったのだが、その次の日には告白の事が殆どのエージェントの耳に入っていた。とにかく一度バレてからは、恐ろしいほどスムーズに関係が進んでいった。
二十歳になった時に二人は結婚した。影に潜む地下組織だと言うのに、式はちゃんとした教会の予約を取り、驚くほど派手に行われた。
同僚も、先輩後輩も、自分たちを厳しくしごいてきた鬼教官も、全員が祝福してくれた。サプライズで自分の家族が来てスピーチをした時、美鶴は涙腺を決壊させその場に崩れ落ちた。
幸せだった。
結婚してもエージェントとしての活動は続けた。美鶴と武人はペアを組み、精力的に活動をしていった。だが結婚から五年後、美鶴が体調不良を訴える。
妊娠五ヶ月だった。
それを聞いた時、美鶴と武人は唖然としてお互いの顔を見合い、そしてその後医療スタッフに十分説教を食らうほどに嬉しさを爆発させた。
男だったら隼人。女だったら隼にしよう。説教から解放された後、武人はベッドにいた美鶴に嬉しそうに言った。まだ気が早いと、満更でもなさそうに美鶴が返した。
その十日後、武人が死亡した。
作戦行動中、潜入していたビルが倒壊。部隊諸共下敷きになったという。
静養中だった美鶴は悲しみに暮れたが、それでも絶望はしなかった。彼女の中には新しい命が、武人との想いの結晶が眠っていたからだ。
美鶴は耐えた。心が押しつぶされぬよう、歯を食いしばって悲しみから耐えた。
そして約束の日がやって来た。美鶴は陣痛を訴え、すぐに出産の準備が行われた。
「それで、どうなったんですか……?」
そこまで来て話を切った隼に、ルカが半分身を乗り出して尋ねた。だが隼は顔を俯かせたまま、唇を噛んで押し黙ったままだった。
「……隼さん?」
「……子供は」
隼が搾り出すように言った。
「流れた」
大悟の顔が真っ青になる。意味を知らなかったルカが、その大悟の横に戻って小声で尋ねた。
「……『流れる』って?」
顔面蒼白のままで大悟がルカに耳打ちする。ルカが手で口を押さえ、短い悲鳴を上げる。
「……『なり損ない』という奴だ、私は。 ……だから、お前たちに近づいた」
自嘲気味に隼が言った。そして唖然とする二人の顔を交互に見ながら、疲れたように隼が続ける。
「憧れてたんだよ、家族に――母親に」
家族が欲しかった。隼が言った。
とても直視できるものでは無かった。
その日、隼はそれから一言も口を利くことはなかった。
書いてて自分で嫌になってきた・・・。
後編でしっかりフォロー入れていきます。
後編をお待ち下さい




