第五十六話「苦い思い出」
それは昔の思い出。
もう取り戻せない、あの日の思い出。
桜並木の道を二人の男女が歩く。少女が前を行き、時々振り返っては後ろにつく少年に言葉を投げる。
「ほら先輩。早くしないと置いていきますよ?」
「まったく、お前はそそっかしいんだよ。もう少し落ち着けって」
「あーあ。遅刻しても知りませんよ?」
「まだ大丈夫だよ。ゆっくり歩いたっていいだろ?」
お昼休み。
学校の屋上。
いつも通り二人でそこに居座り、他愛無い話をしながら購買部で買ってきたパンを一緒に食べる。
「先輩、今日もコッペパンですか?」
「こういうのが好きなんだよ。お前こそ、いつものメロンパンか?」
「私はこういうのが好きなんです」
「甘ったるくないか?」
「いいじゃないですか。美味しいんですから」
帰り道。
夕日が沈む桜並木の道。
いつも通り少年より前を進みながら、だしぬけに少女が少年の方を向いて言った。
「ねえ、先輩?」
「うん?」
「私たち、ずっと友達でいましょうね?」
「……ああ。ずっと友達だ。ずっとな」
「――はい!」
少年は歯切れ悪くも、快活な笑顔でそれに答えた。
それは昔の思い出。
もう取り戻せない、あの日の思い出。
「ダイゴー。朝だよー。起きてよー」
こちらの世界で買った普段着――オレンジ色の半袖のシャツに群青色のズボン――に身を包んだルカがそう言いながら、毛布にくるまって顔だけを出し、ベッドの上で寝息を立てている大悟の身体を軽く揺する。
「ほーら、ダイゴ。もうごすぐ飯出来るよー?いくら今日が日曜日だからって、いつまでも寝てたら隼さんにも怒られちゃうよー?」
「……」
日曜日は休日だと言う事をルカが知っていたのは、それを予め大悟から聞かされていたからだった。そしてその時に大悟は、休みの日なんだからどれだけ寝てても良いんだ、とルカに説明していた。実際、大悟は日曜日の時だけ目覚まし時計のアラーム機能を切っていた。
だがルカとしては、偶の休日だからこそ、早く起きて充実した一日を過ごすべきだと考えていた。学校に通っていない二人にとっては休日の概念など有って無いような物なのだが。
「こらー!ダイゴー!起きろー!もう朝になってんのよー!」
「うう……」
それ故に、ルカは大悟を起こすことを躊躇しなかった。体と思われる毛布の膨らみの部分を両手で掴み、大きく前後に揺らす。
「ほら、もう、いい加減に――!」
そしてそのまま、いつもならば大悟が不機嫌そうに目を開けるまでルカの折檻は続けられるのだが、今回は様子が違った。
「く……」
突然、目を閉じたまま眉根に皺を寄せ、苦しそうに大悟が呻く。
様子がおかしい。
本気で苦しがっているようだ。
それまで体を激しく揺すっていたルカの動きが、それを見た途端にピタリと止まる。
「く……う……」
「?」
そして大悟の呟きを聞き漏らすまいと、自然とルカが片膝立ちになり自分の耳を大悟の口元に近づける。
「じょう……」
「え?」
「くじょう……!」
「……クジョウ?」
「……」
ルカがその聞き取った言葉をオウム返しに呟いた時には、大悟は再びすやすやと寝息を立てていた。その表情はとても穏やかな物だった。
「クジョウ……って」
「……」
「……だれ?」
そして台所からやって来た隼が彼女の名を呼ぶまでの間、ルカはその場に座り込んだまま、大悟を起こすのも忘れて彼が放った言葉の意味について考え込んでいた。
「クジョウって、誰?」
昼過ぎ。自宅で昼ご飯を食べ終え大悟と一緒に外出したルカは、いつもの喫茶店で朝から気になっていた質問を大悟にぶつけてみた。
「クジョウ?」
「うん。クジョウ」
ルカの方に視線を向けて合わせて大悟が顔をしかめる。それはクジョウと言う言葉に反応したからなのか、それともルカが十本目のシュガースティックの封を切って、その中身を彼女が頼んだコーヒーの中に流し込んでいたのを見たからなのかはわからなかった。
「それ、どこで聞いたの?」
「え?どこって」
敢えてコーヒーの件には触れずに大悟が尋ねる。『十一本目』を手に取りながらルカが答えた。
「今日ダイゴが言ってたの。寝言で」
「寝言?本当に?」
「うん。結構苦しそうに呻いてた」
ルカがそう言いながら、シュガースティックが入っていたバスケットの中にあったプラスチック製の小さいマドラーを取り出して、それを使ってコーヒーをかき回す。そしてあらかたかき回した後にカップを持ち、少量を喉に流し込んで頬を綻ばせる。
「はあ、美味しい」
「砂糖入れ過ぎだよ。太るよ?」
「大丈夫だって。夜な夜な魔法少女になって、ちゃんと運動してるじゃない」
そう言ってカップを置き、それより、とルカが言葉を続けた。
「ねえ、クジョウって誰なの?」
「クジョウ。クジョウかあ……」
「……ひょっとして、聞いたらマズい?」
「いや、ここまで来たんだし、それにもう終わった事だから全部話すよ……そうか、寝言で言ってたのか……」
まだ引きずってたのかな、とそっぽを向いてどこか恥ずかしげに呟いた後、再びルカの方に目を向けて大悟が言った。
「……俺のさ」
「うん」
コーヒーを飲む。
一息置いて大悟が言った。
「初恋の人」
「――」
「高校の時の、俺の一年後輩でさ。気の合う友達で……片思いの人だった」
ルカの動きが止まる。そしてすぐに石化から解放された後、軽い緊張と興奮で口をわななかせながらルカが言った。
「そ、それで、告白とかしたの?」
「……」
黙って縦に頷く。
「そ、そうなんだ。へええ……」
「……先の事は聞かなくていいの?」
まるで聞いてほしいとでも言うように、それから顔を引きつらせて黙りこくるルカに大悟が言った。それを聞いて、すぐにバツの悪い顔を見せながらルカが答える。
「い、いいよ。それ以上無理して思い出さなくても。変なこと聞いてごめんね?」
「いや、ここまで来たら最後まで聞いてほしいんだ。俺も全部話したい気分だし」
「そ、そう?じゃあ……聞いていい?」
大悟が頷く。
椅子に座ったまま何故か居住まいを正してルカが言った。
「それで、どうなったの?」
「……」
もう一度、今度はコーヒーを一気に飲み干してから大悟が言った。
「振られた」
大悟が苦笑いを浮かべる。ルカは感情を表に出すことなく、ただ彼の話を聞いていた。
「あまりにも友達すぎて、恋人にはなれないって返された」
「……それで、友達同士って形に収まった?」
「俺も無理に意地通して、関係そのものが壊れるのが嫌だったからさ。結局、次の日からはいつも通りの『友達』になった……でも、楽しかった」
「楽しかった?」
「振られたからって、友達付き合いが無くなった訳じゃない。俺たちはその後も、良く二人組で行動してたよ。周りから恋人同士なんじゃないかって言われるくらいにね」
そう言って、大悟が視線を窓の外に移す。ルカにはその横顔が、どこか寂しそうに見えた。
「本当に楽しかったな。まあそれも、今となっては昔の話なんだけどさ……」
「ダイゴ?」
大悟の瞳が揺れていた。
「……昔の、ね……」
この時ルカは、今の大悟が何を犠牲にした上で成り立っているのか、断片的に分かったような気がした。胸の奥が締め付けられて、とても哀しい気持ちになった。
キールやベリーと離れ離れになったら、自分はどうなってしまうのだろう?
だがルカは同情することは無かった。自分から避けようとしていた。お互いの悲劇のベクトルがズレている事はルカにもわかっていたし、下手な同情は相手を傷つけるだけだという事も知っていたからだ。
それでも、ルカはそんな大悟が放っておけなかった。『同類』に対する同情や憐れみではない。それは彼女が持って生まれた優しさ――敏感でお人好しすぎるきらいのある優しさから来る物であった。
手元のコーヒーを一息に飲み干し、ルカが立ち上がって大悟に言った。
「ダイゴ、歩こう」
「ルカ?」
いきなりの事にきょとんとする大悟にルカが言った。
「こういう時はさ、体を動かした方が悩みも和らぐと思うんだ。どこに行くとかは決めないで、一緒にゆっくり散歩しようよ?」
せっかくの休日なんだしさ。ルカが笑う。
つられて大悟も自然を笑みをこぼす。
「――そうだな。せっかくの休みなんだしな」
「そうそう。時間はたっぷりあるんだから」
大悟が伝票を持って立ち上がり、ルカがそれに続く。
そして会計を済ませ、二人並んで店から出た時、出し抜けに大悟がルカに言った。
「ルカ」
「なに?」
「――ありがと」
たった四文字。その中に大悟の気持ちの全てが含まれていた。
ルカは自分の胸の内が――心が暖かくなるのをはっきり感じた。
「どういたしまして」
自然と漏れた笑顔でルカが大悟に返す。そして二人揃って、昼下がりの町の中を歩き出した。




