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ロールバック・ライフ ~ブラックSE(30)、10年前の専門学生に戻ったので未来知識で全部やり直す~  作者: 深夜三時
第1章 再起動

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第05話 母さん、健康診断を受けてくれ

 ゴールデンウィーク明けの、日曜日の夜。


 夕食の片付けを手伝いながら、俺はタイミングを計っていた。


 台所には、母さんと俺の二人だけ。葵は風呂に入っている。


 蛇口から流れる水の音。食器が触れ合う音。


 言え。今だ。


「なあ、母さん」


「んー?」


「健康診断って、最後にいつ受けた?」


 スポンジを持つ母さんの手が、一瞬止まった。


「……なによ、急に」


「いや、なんとなく。ほら、もうすぐ50だろ」


「失礼ね。まだ48よ」


 母さんは笑って、また皿を洗い始めた。


「別にどこも悪くないもの。元気元気」


「元気でも、受けた方がいいって。区の健診なら、ほとんどタダで受けられるし」


「そのうちね」


 ――そのうち。


 その言葉を、俺は前の人生で何度聞いただろう。


 「そのうち」は来なかった。来たのは、2023年の冬の、主治医の淡々とした声だけだった。


◇


 母さんは、俺が中学2年のときに父さんと離婚した。


 それからずっと、スーパーのパートと、夜の清掃のバイトを掛け持ちして、俺と葵を育ててきた。


 パートだから、会社の健康診断はない。区から届く健診の案内は、いつも郵便物の山の下に埋もれていた。


 前の人生では、それに気づきもしなかった。


 俺は自分のことで精一杯で、母さんがどんな生活をしているのか、ちゃんと見ていなかった。


◇


 翌週。


 作戦を変えることにした。


「母さん、今度一緒に人間ドック行かない? 俺も受けたいんだよ。最近、徹夜でプログラム書いてて体が心配でさ」


「あんた20歳でしょ。何言ってんの」


「若くても病気になるって」


「だったらあんた一人で行きなさい。お母さんは平気だから」


 ダメだ。


 次の週。


「職場の人がさ、検診で早期にがんが見つかって助かったんだって」


「あんたバイト先、コンビニでしょ。そんな話、聞く暇あるの?」


 ……ダメだ。嘘が下手すぎる。


 8年間、障害報告書では「原因」と「対策」を論理的に書いてきた。それなのに、母親一人説得できない。


 前の人生の母さんが、なぜ頑なに病院に行かなかったのか。俺は、その理由すら知らなかった。


◇


 5月の最後の日曜日。


 夜中に喉が渇いて、一階に降りた。


 台所の電気がついている。


 ドアの隙間から覗くと、母さんがテーブルに一人で座っていた。


 電卓と、家計簿と、何枚もの封筒。


 その中に、見覚えのある封筒があった。俺の専門学校の、学費の振込用紙。


 母さんは電卓を叩いては、ため息をついて、また叩き直していた。


 テーブルの端には、区から届いた健診の案内が置いてあった。封は、開いていない。


「……母さん」


 声をかけると、母さんはびくっと肩を跳ねさせて、慌てて封筒を重ねた。


「な、なによ。寝てなさい」


「それ、俺の学費?」


「……あんたは気にしなくていいの」


 気にしなくていい。


 その一言で、全部わかった。


 健診を受けないのは、面倒だからじゃない。


 時間がないからだ。お金がないからだ。もし何か見つかったら、仕事を休まなきゃいけなくなる。そうしたら、俺の学費が払えなくなる。


 ――だから、母さんは「そのうち」と言い続けたんだ。


 前の人生で、母さんが俺に病気のことを隠していた理由も、きっと同じだ。


 息子の邪魔をしたくない。ただ、それだけ。


「……ごめん」


「なんであんたが謝るのよ」


 母さんは困ったように笑った。


 その目尻の皺が、記憶の中の病室の母さんと重なって、俺は拳を握りしめた。


「母さん。俺さ、ちゃんと稼げるようになるから」


「はいはい。まずは進級してね」


「本気だよ」


 俺の声が思ったより強かったのか、母さんは少しだけ目を見開いた。


「だから――俺がちゃんと稼げるようになったら、そのときは、俺の金で健診を受けてくれ。約束してくれ」


 長い沈黙があった。


 冷蔵庫のモーター音だけが、低く響いている。


「……わかった。あんたが稼げるようになったらね」


 母さんは、冗談だと思っている顔で頷いた。


 それでいい。約束は、約束だ。


◇


 部屋に戻る途中、葵の部屋のドアから、細く光が漏れていた。


 午前1時。


 そっと覗くと、葵が机に向かって、ペンタブで何かを描いていた。画面には、銀髪の女の子のイラスト。


 ……上手い。


 素人目にも、線の迷いのなさがわかる。


 前の人生の葵は、部屋に引きこもってからも、ずっと絵を描いていたらしい。それを知ったのは、母さんの遺品整理のときだった。誰にも見せなかったスケッチブックが、段ボール3箱分も出てきた。


「……なに。覗かないでよ」


 振り返った葵が、不機嫌そうに画面を手で隠した。


「悪い。上手いなと思って」


「……は?」


「その子の絵。すごく上手い」


 葵はしばらく黙って俺を睨んでいたが、やがて小さな声で言った。


「……お兄ちゃん、最近ほんとに変」


 そう言いながらも、葵は画面を隠していた手を、ゆっくりと下ろした。


◇


 自分の部屋に戻って、取引所のアプリを開く。


 1BTC=31万2,000円。


 5月の下旬、ビットコインは一気に30万円を超えていた。


 俺の1.89BTCは、時価にして約59万円。1か月で、倍以上だ。


 今売れば、30万円以上の利益になる。母さんの健診代も、来年の学費の一部も払える。


 ――でも、まだだ。


 ここで売れば、元手は60万円で止まる。12月まで待てば、それが400万円を超える。


 母さんの「そのうち」を、本当の意味で終わらせるには、もっと大きな力が要る。学費の心配をしなくていいだけの、母さんが安心して仕事を休めるだけの力が。


 アプリを閉じて、「人生ロールバック計画」を開く。


 ・母さん:健診の約束 取り付け済み(2017/05/28)

  → 実行期限:ビットコイン売却後すぐ

 ・葵:絵がうまい。要観察


 キーボードから手を離して、天井を見上げた。


 階下では、まだ電卓を叩く音が、小さく続いていた。

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