第05話 母さん、健康診断を受けてくれ
ゴールデンウィーク明けの、日曜日の夜。
夕食の片付けを手伝いながら、俺はタイミングを計っていた。
台所には、母さんと俺の二人だけ。葵は風呂に入っている。
蛇口から流れる水の音。食器が触れ合う音。
言え。今だ。
「なあ、母さん」
「んー?」
「健康診断って、最後にいつ受けた?」
スポンジを持つ母さんの手が、一瞬止まった。
「……なによ、急に」
「いや、なんとなく。ほら、もうすぐ50だろ」
「失礼ね。まだ48よ」
母さんは笑って、また皿を洗い始めた。
「別にどこも悪くないもの。元気元気」
「元気でも、受けた方がいいって。区の健診なら、ほとんどタダで受けられるし」
「そのうちね」
――そのうち。
その言葉を、俺は前の人生で何度聞いただろう。
「そのうち」は来なかった。来たのは、2023年の冬の、主治医の淡々とした声だけだった。
◇
母さんは、俺が中学2年のときに父さんと離婚した。
それからずっと、スーパーのパートと、夜の清掃のバイトを掛け持ちして、俺と葵を育ててきた。
パートだから、会社の健康診断はない。区から届く健診の案内は、いつも郵便物の山の下に埋もれていた。
前の人生では、それに気づきもしなかった。
俺は自分のことで精一杯で、母さんがどんな生活をしているのか、ちゃんと見ていなかった。
◇
翌週。
作戦を変えることにした。
「母さん、今度一緒に人間ドック行かない? 俺も受けたいんだよ。最近、徹夜でプログラム書いてて体が心配でさ」
「あんた20歳でしょ。何言ってんの」
「若くても病気になるって」
「だったらあんた一人で行きなさい。お母さんは平気だから」
ダメだ。
次の週。
「職場の人がさ、検診で早期にがんが見つかって助かったんだって」
「あんたバイト先、コンビニでしょ。そんな話、聞く暇あるの?」
……ダメだ。嘘が下手すぎる。
8年間、障害報告書では「原因」と「対策」を論理的に書いてきた。それなのに、母親一人説得できない。
前の人生の母さんが、なぜ頑なに病院に行かなかったのか。俺は、その理由すら知らなかった。
◇
5月の最後の日曜日。
夜中に喉が渇いて、一階に降りた。
台所の電気がついている。
ドアの隙間から覗くと、母さんがテーブルに一人で座っていた。
電卓と、家計簿と、何枚もの封筒。
その中に、見覚えのある封筒があった。俺の専門学校の、学費の振込用紙。
母さんは電卓を叩いては、ため息をついて、また叩き直していた。
テーブルの端には、区から届いた健診の案内が置いてあった。封は、開いていない。
「……母さん」
声をかけると、母さんはびくっと肩を跳ねさせて、慌てて封筒を重ねた。
「な、なによ。寝てなさい」
「それ、俺の学費?」
「……あんたは気にしなくていいの」
気にしなくていい。
その一言で、全部わかった。
健診を受けないのは、面倒だからじゃない。
時間がないからだ。お金がないからだ。もし何か見つかったら、仕事を休まなきゃいけなくなる。そうしたら、俺の学費が払えなくなる。
――だから、母さんは「そのうち」と言い続けたんだ。
前の人生で、母さんが俺に病気のことを隠していた理由も、きっと同じだ。
息子の邪魔をしたくない。ただ、それだけ。
「……ごめん」
「なんであんたが謝るのよ」
母さんは困ったように笑った。
その目尻の皺が、記憶の中の病室の母さんと重なって、俺は拳を握りしめた。
「母さん。俺さ、ちゃんと稼げるようになるから」
「はいはい。まずは進級してね」
「本気だよ」
俺の声が思ったより強かったのか、母さんは少しだけ目を見開いた。
「だから――俺がちゃんと稼げるようになったら、そのときは、俺の金で健診を受けてくれ。約束してくれ」
長い沈黙があった。
冷蔵庫のモーター音だけが、低く響いている。
「……わかった。あんたが稼げるようになったらね」
母さんは、冗談だと思っている顔で頷いた。
それでいい。約束は、約束だ。
◇
部屋に戻る途中、葵の部屋のドアから、細く光が漏れていた。
午前1時。
そっと覗くと、葵が机に向かって、ペンタブで何かを描いていた。画面には、銀髪の女の子のイラスト。
……上手い。
素人目にも、線の迷いのなさがわかる。
前の人生の葵は、部屋に引きこもってからも、ずっと絵を描いていたらしい。それを知ったのは、母さんの遺品整理のときだった。誰にも見せなかったスケッチブックが、段ボール3箱分も出てきた。
「……なに。覗かないでよ」
振り返った葵が、不機嫌そうに画面を手で隠した。
「悪い。上手いなと思って」
「……は?」
「その子の絵。すごく上手い」
葵はしばらく黙って俺を睨んでいたが、やがて小さな声で言った。
「……お兄ちゃん、最近ほんとに変」
そう言いながらも、葵は画面を隠していた手を、ゆっくりと下ろした。
◇
自分の部屋に戻って、取引所のアプリを開く。
1BTC=31万2,000円。
5月の下旬、ビットコインは一気に30万円を超えていた。
俺の1.89BTCは、時価にして約59万円。1か月で、倍以上だ。
今売れば、30万円以上の利益になる。母さんの健診代も、来年の学費の一部も払える。
――でも、まだだ。
ここで売れば、元手は60万円で止まる。12月まで待てば、それが400万円を超える。
母さんの「そのうち」を、本当の意味で終わらせるには、もっと大きな力が要る。学費の心配をしなくていいだけの、母さんが安心して仕事を休めるだけの力が。
アプリを閉じて、「人生ロールバック計画」を開く。
・母さん:健診の約束 取り付け済み(2017/05/28)
→ 実行期限:ビットコイン売却後すぐ
・葵:絵がうまい。要観察
キーボードから手を離して、天井を見上げた。
階下では、まだ電卓を叩く音が、小さく続いていた。
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