第04話 全財産30万円
土曜日の午後。
颯太に連れられてやってきたのは、駅前の雑居ビルの3階にある、小さな貸し会議室だった。
入り口に、手書きの紙が貼ってある。
『初心者歓迎! これから始める仮想通貨勉強会』
「……怪しさ満点だな」
「だろ? でも参加費500円だし、話のネタにはなるって」
颯太は気楽に笑ってドアを開けた。
中には、パイプ椅子が20脚ほど並んでいた。埋まっているのは半分くらい。大学生らしいグループ、スーツ姿のサラリーマン、定年後っぽいおじさん。年齢も服装もバラバラだ。
前の人生の俺なら、絶対に来なかった場所だ。
それなのに、なぜ今、俺はここにいるのか。
――颯太が誘ってきたから。でも前の人生で、颯太はこんな勉強会の話をしていただろうか。
記憶を探っても、何も出てこない。
ただ、俺が覚えていないだけかもしれない。10年前の、ありふれた週末の誘いなんて。
◇
講師は、30代半ばくらいの男だった。ポロシャツに、やけに白い歯。
「皆さん、ブロックチェーンって聞いたことありますか? これはね、インターネット以来の革命なんですよ!」
ホワイトボードに、ブロックが鎖でつながった絵が描かれていく。
話の中身は、正直、半分くらいは怪しかった。
「今はまだ13万円ですけど、年末には50万、いや100万もあり得ます!」
会場が「おおー」とどよめく。
俺は黙って、膝の上で拳を握った。
100万どころじゃない。233万だ。
この部屋にいる誰も、それを知らない。講師本人ですら、口から出まかせで言っているだけだ。
――いや。
ふと、視線を感じた。
一番後ろの、壁際の席。黒いジャケットを着た、20代半ばくらいの男が座っていた。
メモも取らず、スマホもいじらず、腕を組んで講師の話を聞いている。
講師が「年末には100万」と言った瞬間。
その男の口元が、ほんの少しだけ、笑った気がした。
まるで、答えを知っている人間が、間違った答案を眺めるみたいに。
目が合う。
男はすぐに視線を外し、何事もなかったようにホワイトボードを見た。
……気のせいか?
勉強会が終わる10分前。男は静かに席を立ち、誰とも話さずに部屋を出て行った。
◇
「いやー、面白かったな!」
帰り道、颯太は上機嫌だった。
「俺、やっぱ買ってみるわ。とりあえず3万くらい」
「……どこで買うんだ?」
「ん? ほら、この取引所。アプリが見やすいんだよ。登録もすぐできるし」
颯太がスマホで見せてきたロゴを見て、背中が冷たくなった。
来年の1月26日。580億円分の仮想通貨が盗まれる、あの取引所だ。
「颯太、そこはやめとけ」
「え、なんで?」
「……なんとなく。セキュリティが心配だ」
「なんとなくって。お前、さっきの講師より根拠ないじゃん」
颯太は笑った。当然だ。2017年の春の時点で、あそこが危ないなんて言っている人間は、ほとんどいない。
「とにかく、大金は置くな。買うなら、こまめに自分のウォレットに移せ」
「ウォレット? なにそれ、めんどくさそう」
ダメだ。今の俺には、未来の出来事を「根拠」として示す方法がない。
言えば言うほど、ただの変な奴になる。
焦るな。1月26日までは、まだ9か月ある。説得のチャンスは、これから何度でもある。
◇
4月下旬。
郵便受けに、取引所からの本人確認のハガキが届いた。
受け取って、二階に駆け上がる。ハガキに書かれたコードを入力すると、画面に「口座開設が完了しました」の文字が浮かんだ。
手が、少し震えていた。
チャートを開く。
1BTC=14万8,000円。
この3週間で、15%ほど上がっていた。
「……チッ」
思わず舌打ちが出る。待っている間に、買える量が減った。
でも、これでいい。これが「本物の相場」だ。俺の記憶はチート能力じゃない。確実なのは12月の一点だけで、そこに至る道のりの細かい上下なんて、ほとんど覚えていない。
銀行アプリから、取引所に入金する。
28万4,000円。
生活費の2万円ちょっとだけを手元に残して、残りは全部。
入金完了の通知が届く。
購入画面に、数字を打ち込む。
28万円分。約1.89BTC。
「購入する」のボタンの上で、指が止まった。
――本当に、大丈夫か?
もし俺の記憶が間違っていたら。もし、何かの拍子で未来が変わっていたら。20歳の俺は、全財産を失う。
前の人生で、颯太がそうなったように。
頭の中で、颯太の声が響く。
『見ろよ湊、ビットコイン233万!』
あのときの、子どもみたいに無邪気な笑顔。そして、それが崩れていく1か月。
俺は、知っている。
上がることも、落ちることも。大きな山と谷が、いつ来るかも。
知っている奴が動かないで、誰が動くんだ。
「……行け」
クリック。
画面が切り替わり、「約定しました」の文字が表示された。
保有資産:1.8917 BTC。
ベッドに仰向けに倒れ込む。心臓がうるさい。天井のへこみを見上げながら、俺は長く息を吐いた。
全財産、賭けた。
ここから12月8日まで、約7か月半。
あとは、待つだけ――。
……いや。
待つだけじゃダメだ。
ビットコインで作れるのは、せいぜい数百万円の元手だ。それだけで人生が変わるわけじゃない。
母さんを病院に連れて行くこと。結衣と向き合うこと。颯太を守ること。
お金で解決できることと、できないことがある。
俺は起き上がって、ノートパソコンの「人生ロールバック計画」を開いた。
「手段」の下に、一行を書き足す。
・ビットコイン 1.89BTC 購入済み(2017/04/27)
→ 売却予定日:2017/12/08
そしてもう一行。
・次のタスク:母さんに健康診断を受けさせる
それが、一番難しいことを、俺は知っていた。
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