第03話 未来を知る男
1BTC=12万9,000円。
スマホの画面に表示された数字を、俺は何度も見直した。
13万円にも届いていない。
12月には、これが233万円になる。
単純計算で、約18倍。
「……笑うしかないだろ、こんなの」
ニュースサイトには、こんな記事も載っていた。4月1日から改正資金決済法が施行され、仮想通貨が初めて法律で定義された――と。
そうだった。2017年は、日本で仮想通貨が「ちゃんとしたもの」として扱われ始めた年だ。ここから一気に、テレビCMが流れ、芸能人が宣伝し、日本中がお祭り騒ぎになっていく。
そして年明けに、すべてが崩れる。
流れを全部知っているのは、たぶん、この世界で俺だけだ。
◇
専門学校までは、電車で30分。
満員電車の吊り革に掴まりながら、周りを見回す。マスク姿は、花粉症らしい何人かだけ。みんな当たり前のように、ぎゅうぎゅうに詰まって立っている。
3年後、この景色は消える。それを知っているのも、たぶん俺だけだ。
駅から歩いて5分。灰色の、どこにでもありそうな7階建てのビル。
IT専門学校、高度情報システム科。3年制の、2年目。
エレベーターを待っていると、背中をバシンと叩かれた。
「よっ、湊! 春休みどうだった?」
振り返った瞬間、心臓が跳ねた。
少し伸びた茶髪に、パーカー。片耳にだけイヤホンを突っ込んで、コンビニのサンドイッチをかじっている男。
桐生颯太。
俺の親友で、この学校で一番の天才で――前の人生では、俺が助けられなかったやつ。
「……颯太」
「なんだよその顔。幽霊でも見たみたいな」
最後に見た颯太は、目の下が真っ黒で、頬がこけていた。電話越しに「金、貸してくれないか」と言った、あの声。
今、目の前にいる颯太は、能天気に笑っている。
「いや、なんでもない。……久しぶりだなって思って」
「2週間ぶりだろ。大げさだって」
颯太はケラケラ笑って、俺の肩に腕を回した。
「なあ、聞いてくれよ。春休み中にさ、学内の時間割アプリ作ったんだよ。Androidのやつ。休講情報もプッシュで飛ばせるようにしてさ」
「……マジで?」
「マジマジ。見る?」
差し出されたスマホの画面を見て、俺は言葉を失った。
UIは粗い。でも、設計がしっかりしている。データの持ち方も、通信の仕方も、20歳の学生が独学で書いたとは思えないほど、筋が通っていた。
前の人生でも、俺はこのアプリを見たはずだ。そのときは「へえ、すげえな」と言っただけで、終わった。
8年現場にいた今ならわかる。こいつは、本物だ。
「颯太。お前、これ、すごいぞ」
「お、おう? なんだよ急に。いつもは『へー』で終わるくせに」
照れくさそうに頭をかく颯太を見て、胸の奥が痛んだ。
そうだ。前の俺は、こいつの才能を、一度もちゃんと褒めなかった。
◇
ガイダンスが終わった昼休み。
学食に向かう廊下で、颯太がふと思い出したように言った。
「そういやさ、湊。ビットコインって知ってる?」
足が止まりかけた。
「……なんで?」
「いや、ネットでちょっと話題になってんだよ。法律が変わって、これから来るんじゃないかって。俺、ちょっと買ってみようかなーって」
知っている。
前の人生の颯太は、この春は様子見をして、秋に価格が上がり始めてから飛びついた。高値で買い増しを重ね、年明けに全部失った。
――止めるべきか?
いや、違う。仮想通貨そのものが悪いわけじゃない。問題は、買う時期と、売る時期と、どこに預けるかだ。
「颯太。買うなら、早い方がいいと思う」
「お、湊も興味ある系?」
「ある。めちゃくちゃある」
俺の声が真剣すぎたのか、颯太がきょとんとした顔をした。
「……お前、今日マジでどうした?」
◇
午後の授業は、Javaのオブジェクト指向の復習だった。
教室の後ろの席で、教科書をめくる。クラス、継承、インターフェース。10年間、毎日のように書いてきた内容だ。目をつぶっていても書ける。
課題が配られて、俺は5分で終わらせた。ついでに、テストコードまで書いてしまった。
「……相沢、もう終わったのか?」
講師の佐伯先生が、俺の画面を覗き込んで眉をひそめる。
「単体テストまで……。お前、春休みに何かあったか?」
「ちょっと、勉強しました」
10年ほど、とは言えない。
隣の席の颯太が「裏切り者……」と小声で呟いていた。
◇
放課後。
帰ろうとしてエレベーターホールに向かうと、Webデザイン科の教室の前で、一人の女子が壁にもたれてスケッチブックを開いていた。
肩までの黒髪。少し大きめのカーディガン。ペンを持つ指先が、迷いなく線を引いていく。
篠宮結衣。
小学校からの幼馴染で、同じ専門学校のWebデザイン科。
そして、前の人生で――俺が最後まで「好きだ」と言えなかった相手。
「あ、湊。おつかれ」
結衣が顔を上げて、ふわっと笑った。
その笑顔を見た瞬間、喉の奥が詰まった。
2020年の春、電話越しに聞いた、最後の声を思い出す。
『湊はさ、いつも私の話、聞いてないよね』
あのとき、俺は「疲れてるんだよ」としか言えなかった。
「……結衣。何描いてんの?」
「え? ああ、課題のロゴ案。カフェのやつ。まだ全然ダメなんだけど」
見せてもらったスケッチには、コーヒーカップと小さな鳥を組み合わせたロゴが、何パターンも描かれていた。
「この3つ目、いいな。線が少ないのに、何のお店かすぐわかる」
「……え」
結衣が、目を丸くした。
「湊がデザイン褒めるの、初めて聞いたかも」
「そう、だっけ」
「そうだよ。いつも『よくわかんない』って言うじゃん」
結衣は少し照れたように、スケッチブックで口元を隠した。
「……ありがと。3つ目、もうちょっと詰めてみる」
たったそれだけの会話だった。
でも、前の人生で俺は、この一言すら言えなかったんだ。
◇
その夜。
自分の部屋で、銀行のアプリを開いた。
残高、30万4,812円。
高校時代からのバイト代と、お年玉の残り。20歳の俺の、全財産だ。
30万円を、今の価格でビットコインに換えれば、約2.3BTC。
12月の頭、233万円で売れば――500万円を超える。
もちろん、税金はかかる。記憶違いの可能性だってある。俺が知っているのは、颯太が見せてきた、あの一瞬の数字だけだ。
それでも。
20歳の学生が、何の後ろ盾もなく人生をひっくり返すための元手として、これ以上の手段はない。
ノートパソコンの画面に、取引所の比較記事が並んでいる。その中には、前の人生で颯太が使っていた取引所の名前もあった。
来年の1月26日。あそこは破られる。
「……あそこだけは、使わない」
呟いて、俺は別の取引所の口座開設ボタンをクリックした。
本人確認、書類のアップロード、住所確認のハガキ待ち。手続きにはしばらくかかる。
構わない。12月までは、まだ8か月ある。
ふと、机の上のスマホが震えた。颯太からのLINEだ。
『そーいや明日、仮想通貨の勉強会あるんだけど行く? なんか詳しい人が来るらしいぜ』
勉強会。
前の人生の記憶を探る。……そんなもの、行った覚えがない。
前の人生で、颯太は俺を誘っただろうか? それとも俺が、何かを変えたから――?
背筋に、冷たいものが走った。
『行く』
短く返信して、スマホを伏せる。
窓の外では、2017年の春の夜風が、まだ散りきらない桜を揺らしていた。
――ロールバック、開始だ。
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