第02話 2017年4月7日
ピピピ、ピピピ、と電子音が鳴っている。
アラームだ。……アラーム?
サーバールームに、目覚ましなんてあっただろうか。
重いまぶたを持ち上げると、見慣れない――いや、懐かしすぎる天井があった。
白いクロス。右上の角に、子どもの頃にボールをぶつけてできた小さなへこみ。
「……は?」
飛び起きた。
六畳の和室に、パイプベッド。壁には色あせたゲームのポスター。机の上には、専門学校の入学祝いで買ってもらったノートパソコンが置いてある。
実家の、俺の部屋だ。
大学ではなく専門学校に進むと決めた日、母さんが「じゃあパソコンくらいはいいの買わなきゃね」と笑っていた、あの部屋。
――おかしい。
この部屋は、母さんが死んだ後に片付けたはずだ。家だって、もう売ってしまった。
枕元で鳴り続けているスマホを掴む。iPhone 6s。画面のガラスに、見覚えのあるヒビが斜めに走っている。
ロック画面の数字を見た瞬間、呼吸が止まった。
2017年4月7日(金) 7:00
「……2017年」
声が震えた。
夢か? 死ぬ前に見る走馬灯ってやつか?
頬をつねる。痛い。もう一度、強く。普通に痛い。
ベッドから転がり出て、部屋の隅の姿見の前に立つ。
映っていたのは、知らない男――いや、知っている。10年前の、俺だ。
目の下のクマがない。肌に張りがある。腹が出ていない。少し長めの前髪は、当時「似合ってる」と思い込んでいた髪型そのものだ。
「若っ……」
思わず声が出た。30歳の俺が毎朝見ていた、くたびれた顔はどこにもない。
20歳。専門学校2年生。
あのコミットの文字が、頭の中で点滅する。
――revert: 2017-04-07。
「戻った、のか……? 10年前に……?」
◇
「湊ー! 起きてるのー? ご飯冷めるよー!」
階下から聞こえた声に、全身が固まった。
知っている声だ。
二度と聞けないと思っていた声だ。
気づいたら、階段を駆け下りていた。途中で一段踏み外しかけて、手すりにしがみつく。
台所に飛び込むと、エプロン姿の女性が、フライパンを片手に振り返った。
「なに、朝からドタドタして。……どうしたの、その顔」
母さんだ。
相沢美佐子、47歳。
まだ白髪も少ない。頬もふっくらしている。病室で見た、骨と皮だけになった姿とは、まるで別人だった。
生きている。
母さんが、生きて、目の前で目玉焼きを焼いている。
「……母さん」
「なによ」
「いや……なんでも、ない」
声が詰まって、それ以上何も言えなかった。
泣くな。ここで泣いたら、ただの変な息子だ。
必死に唇を噛んで、テーブルについた。目玉焼きとウインナーと、豆腐の味噌汁。何の変哲もない朝ごはん。
一口すすった味噌汁は、ちょっとしょっぱくて、記憶の中とまったく同じ味がした。
「おいしい」
「は? いつもと同じでしょ。熱でもあるの?」
母さんが怪訝そうに眉を寄せて、俺の額に手を当てる。その手の温かさに、また鼻の奥がツンとした。
◇
「お母さん、私のリボン知らない?」
パタパタとスリッパを鳴らして、制服姿の少女が台所に入ってきた。
妹の葵だ。高校2年生。
前の人生では、高校3年の途中から学校に行かなくなり、そのまま10年近く部屋から出てこなかった妹。最後に話したのは、母さんの葬式の日だった。
その葵が、ちゃんと制服を着て、学校に行こうとしている。
「お兄ちゃん、なにジロジロ見てんの。キモいんだけど」
「……いや。制服、似合ってるなと思って」
「は? ほんとにキモい。お母さん、お兄ちゃん壊れた」
「朝からずっとこうなのよ。変なもの食べたのかしら」
二人が顔を見合わせる。
俺は笑った。笑いながら、目の端に溜まったものを、袖でこっそり拭った。
◇
朝食後、部屋に戻ってドアを閉め、深呼吸をした。
落ち着け。まずは状況整理だ。エンジニアらしく、事実を一つずつ確認する。
スマホでニュースサイトを開く。並んでいる見出しは、どれも記憶にある「10年前のニュース」だった。トップ記事の日付も、全部2017年4月。
カレンダーアプリには、自分で入れた予定が並んでいる。
『4/7(金) 2年次ガイダンス 10:00〜』
今日は、専門学校2年の初日だ。
手が汗ばむ。
夢じゃない。少なくとも、夢だと判断できる根拠が何もない。
俺は、2027年から2017年に戻ってきた。30歳の記憶を持ったまま、20歳の体で。
理由はわからない。あのコミットが何だったのかも、わからない。
でも、ひとつだけはっきりしていることがある。
――俺は、これから10年で何が起きるかを知っている。
母さんの体の中で、何が進んでいくのか。
結衣と俺が、どこですれ違うのか。
颯太が、何に人生を狂わされるのか。
そして、世界がこれからどう動くのか。
ノートパソコンを開き、テキストエディタを立ち上げる。前の人生で、何千回と障害報告書を書いてきた指が、勝手に動き出した。
【人生ロールバック計画】
■ 目的
・母さんを守る(2023年までに、絶対に病院へ)
・結衣に、今度こそちゃんと向き合う
・颯太を、仮想通貨の沼から引きずり出す
・俺自身が、使い潰される人生から抜け出す
■ 手段
・未来の知識
最後の一行を打ち込んで、手が止まる。
未来の知識。言葉にすると、いかにも頼りない。
でも、俺には一つだけ、絶対に忘れない数字がある。
颯太が、あの冬に自慢げに見せてきたスマホの画面。
――ビットコイン、233万円。
今、2017年4月。あれは、今年の12月の話だ。
ブラウザを立ち上げ、震える指で検索窓に打ち込む。
『ビットコイン 価格』
表示された数字を見て、俺は思わず、声を出して笑ってしまった。
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