第40話 卒業式
6月の初め。
梅雨入り前の、蒸し暑い火曜日の午後。
柏木システムズのオフィスの奥にある会議室から、来客を見送る柏木社長の声が聞こえてきた。
「――では、今日はこれで。また連絡します」
「よろしくお願いします。前向きに、ご検討いただければ」
その声を聞いた瞬間、キーボードを叩く指が、止まった。
知っている声だった。
少しかすれた、早口の声。電話越しに、何百回も怒鳴られた声。
『相沢! まだ戻らないのか!』
――ゆっくりと、顔を上げた。
会議室から出てきたのは、40代前半くらいの男だった。くたびれたスーツに、少し後退し始めた額。手には、分厚い資料の入った紙袋。
三上。
前の人生で、俺の上司だった男。
2027年4月7日、あのサーバールームにいた俺を、電話越しに最後まで怒鳴りつけた男。
8年前の三上は、記憶の中よりも、少しだけ若かった。髪もまだ多いし、目の下のクマも、そこまで濃くない。
でも、間違いなかった。
◇
心臓が、嫌な音を立てていた。
手のひらに、冷たい汗がにじむ。
――落ち着け。
あいつは、俺を知らない。この世界の三上にとって、俺はまだ、ただの知らない若者だ。
「……湊? どうした、顔色悪いぞ」
隣の颯太が、怪訝そうに俺の顔を覗き込んだ。
「……なんでもない」
視線を画面に戻そうとした、その時。
三上が、こっちを見た。
オフィスの隅の、二つのデスク。若い男が二人。三上の目が、少しだけ細くなった。
そして、柏木社長に何か一言聞いてから、まっすぐこちらに歩いてきた。
「――君たちが、まちオーダーの人?」
◇
「ネクストリンクソリューションズの、三上です。開発部の課長をしています」
差し出された名刺には、そう書いてあった。
――課長。
8年後には、部長になっている。
「今日は、柏木さんのところに、別件でお邪魔してたんだけどね。君たちのことを、ちょっと聞いて」
三上は、俺たちのデスクの横に立ったまま、早口で話し始めた。
「実は、うちが今、大手さんから大きな案件をもらっててね。ある県の、商店街向けのキャッシュレス導入と、デジタル化の支援事業。自治体の予算がついてる」
「……はい」
「それで、商店街のお店向けに、注文を受けられる仕組みがほしいんだ。一から作ると、時間もお金もかかる。……君たちのまちオーダー、それに使えないかと思ってね」
三上は、俺の顔を見て、にこりと笑った。
営業用の笑顔だった。
「もちろん、表に出るのはうちの名前になる。まちオーダーの名前は出さない。君たちは、うちの下で、システムを提供してくれればいい。保守も、君たちでお願いしたい」
「……条件は」
「1店舗あたり、月500円。それで、100店舗分」
――500円。
今、俺たちが商店街のお店からもらっている利用料の、6分の1。
「安いと思うかもしれないけど、100店舗だよ? 学生の起業ごっこには、悪くない話だと思うけどね」
隣で、颯太が、むっとした顔をした。
◇
――知っている。
この話の、先を。
大手が、自治体から予算付きの事業を受注する。それを、ネクストリンクのような下請けに丸投げする。ネクストリンクは、さらに安い外注先を探して、そこに押し付ける。
予算は、上から順番に抜かれていく。一番下に届くころには、ほとんど残っていない。
そして、一番下で実際に手を動かす人間が、深夜まで障害対応に追われる。
――前の人生の、俺のように。
「お断りします」
声は、自分でも驚くほど、落ち着いていた。
三上の笑顔が、一瞬だけ固まった。
「……理由を、聞いてもいいかな」
「まちオーダーは、お店の人の顔を見て作っているサービスです。お店の人が、誰が作っているのかわからない形では、提供できません」
「理想論だね」
三上は、肩をすくめた。
「君たち、学生だろ? いや、もう卒業したのか。まあどっちでもいい。そういう理想論で、いつまで食っていけると思ってるの」
「……」
「こういう大きな案件に乗っからないと、小さい会社はすぐ潰れるよ。世の中、そういう仕組みになってるんだから」
――世の中、そういう仕組みになってる。
前の人生で、何度も聞いた言葉だった。
俺が「この納期は無理です」と言うたびに、三上はそう言った。「上がそう決めたんだから」「世の中そういうもんだ」「文句があるなら辞めろ」。
でも、今、目の前の三上を見ていて、気づいたことがあった。
三上の目の下には、うっすらとクマがあった。紙袋を持つ手の指先が、少しだけ荒れていた。スーツの肩が、くたびれていた。
――この人も、きっと、上から押し付けられているんだ。
大手の元請けから。自分の会社の上司から。「この予算で、この納期で、何とかしろ」と。
そして、それを、さらに下に押し付ける。
この人も、あの仕組みの中の、歯車の一つだった。
「……三上さん」
「なに」
「その案件、たぶん、すごく大変になると思います。予算も納期も、きつくなる。……無理だけは、しないでください」
三上は、虚を突かれたような顔をした。
それから、ふん、と鼻を鳴らした。
「……何言ってんだか。生意気な若造だな」
三上は、紙袋を持ち直して、背中を向けた。
オフィスの出口で、柏木社長に一礼して、去っていった。
◇
「――よく断ったな」
三上が帰ったあと、柏木社長が、俺たちのデスクにやってきた。
「すみません。社長のお客さんだったのに」
「気にするな。あの会社とは、昔から付き合いがあるだけだ。今日の話も、私は最初から断るつもりだった」
社長は、少しだけ苦い顔をした。
「三上さんは、悪い人じゃない。……ただ、あの会社の中で、ずっと板挟みになってる人だ」
――知っています。
とは、言えなかった。
◇
その夜、帰りの電車の中。
颯太が、ぽつりと言った。
「……なあ。お前、あの人のこと、知ってたのか」
「なんで」
「顔見た瞬間、真っ青になってたし。最後に『無理しないでください』って、普通、初対面の相手に言わねえだろ」
――鋭い。
「……昔、ちょっとな」
「昔って、いつだよ」
颯太は、そう言ってから、自分で首を振った。
「……いや、いい。聞かねえ約束だった」
電車の窓の外を、街の明かりが流れていく。
前の人生で、三上は、俺にとってただの「敵」だった。理不尽な命令を押し付けてくる、憎むべき上司。
でも、今日、気づいてしまった。
あの人も、あのサーバールームの夜、どこかで誰かに怒鳴られていたのかもしれない。
――本当に変えなきゃいけないのは、人じゃなくて、仕組みの方だ。
スマホの「人生ロールバック計画」に、一行を書き足した。
・三上(ネクストリンク開発部課長)と遭遇(2019/06/04)
下請け提案(1店舗月500円)→ 断った
→ あの人も、仕組みの中で押しつぶされている側だった
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