第37話 登録者1万人
12月22日、土曜日。夜8時58分。
葵の部屋のドアの前に、今夜も、俺と母さんは並んで座っていた。
ただし、一月のデビューの夜とは、少し違うところがあった。
ドアが、少しだけ開いていた。
「……ねえ湊。今日は、中に入ってもいいのかしら」
「『ドアは開けとくけど、入ってきたら殺す』だってさ」
「物騒ねえ」
母さんは、くすくす笑いながら、スマホで葵のチャンネルの配信ページを開いた。
配信のタイトルは、こうだった。
『【登録者1万人記念】みんな、ありがとう! お絵描きしながら振り返り』
◇
この一年で、世の中は大きく変わった。
年明けから、「バーチャルYouTuber」という言葉は、一気にネットの中心に躍り出た。キズナアイに続く人気者が次々に現れ、企業も参入して、春には数えきれないほどのVTuberが活動を始めていた。
前の人生でも、知識としては知っていた。2018年は、VTuberが爆発的に増えた年だと。
でも、そのど真ん中に、自分の妹がいるなんて、想像もしなかった。
葵――シエルは、一月のデビューから、二回目から毎週土曜日の夜に枠を移して、欠かさずお絵描き配信を続けた。
最初の数か月は、同時視聴者数が20人、30人。登録者は、ゆっくりとしか増えなかった。
変わったのは、春だった。
VTuberのブームで、新しく見に来る人が一気に増えた。その中の何人かが、シエルの描くイラストをSNSで紹介してくれた。
「声が落ち着く」「絵が上手すぎる」「作業用に最適」。
夏には、登録者が3,000人を超えた。秋には、5,000人。
そして、今週の水曜日。
チャンネル登録者数が、10,000人を超えた。
◇
午後9時。
スマホの画面に、シエルが現れた。
『――こんばんは。シエルです』
一月の夜とは、声が全然違った。
まだ少し照れくさそうだけど、震えてはいない。落ち着いていて、柔らかくて、ちゃんと、画面の向こうの誰かに話しかけている声だった。
同時視聴者数:847人。
『わあ……すごい、もう800人もいる。みんな、来てくれてありがとう』
コメント欄が、滝のように流れていく。
『1万人おめでとう!』
『デビューから見てました!』
『シエルちゃん、おめでとう!!』
画面の隅に、色のついたコメントが表示された。
『¥1,000 1万人おめでとう! これからも応援してます』
投げ銭だ。収益化の手続きは、母さんの名前で済ませてあった。
『あ、あの、ありがとうございます……! え、待って、いっぱい来てる……!』
葵の声が、少しだけ上ずった。
母さんが、スマホの画面を見つめたまま、目を丸くしていた。
「……ねえ湊。これ、お金なの?」
「うん。応援してくれる人が、送ってくれるんだ」
「葵に……?」
「そう。葵の絵と、声に」
母さんは、何も言わずに、画面を見つめ続けていた。
◇
配信の中盤。
シエルは、イラストを描く手を少し止めて、ゆっくりと話し始めた。
『今日は、ちょっとだけ、昔の話をしてもいいですか』
コメント欄が、少しだけ静かになった。
『私ね、去年の夏まで、自分の描いた絵を、誰にも見せたことがなかったんです。学校で、絵を描いてるのを、からかわれたことがあって。それから、ずっと、隠してました』
――葵。
ドアの外で、俺は、息を詰めた。
『でも、去年の夏に、家族が「葵の絵、すごいと思う」って言ってくれて。……あ、本名言っちゃった。今のなしで』
コメント欄に、『かわいい』『聞かなかったことにする』という文字が流れる。
ドアの向こうで、葵が「うわあ……」と小さく呻く声が、生で聞こえた。
母さんが、口元を押さえて、肩を震わせていた。笑っているのか、泣いているのか、わからなかった。
『それで、初めて、絵をネットに上げてみたんです。……そしたら、知らない人が、「この子の目、すごく綺麗ですね」って言ってくれて』
シエルの声が、少しだけ震えた。
『それが、すごく、すごく嬉しくて。……それで、今、ここにいます』
『1万人って、私が通ってる学校の生徒の、十倍以上なんです。そんなにたくさんの人が、私の絵を見に来てくれてる。……信じられないです』
シエルは、画面の中で、小さくお辞儀をした。
『本当に、ありがとう。これからも、描き続けます』
◇
配信が終わったのは、夜の11時過ぎだった。
ドアが、内側から、大きく開いた。
葵が、ヘッドホンを首にかけたまま、顔を出した。
「……聞いてた?」
「聞いてた」
「本名、言っちゃった」
「言ってたな」
「最悪……」
葵は、両手で顔を覆って、その場にしゃがみ込んだ。
母さんが、そっと葵の隣にしゃがんで、背中をさすった。
「葵。お母さんね、葵が学校でからかわれてたなんて、知らなかったわ」
葵の肩が、ぴくりと震えた。
「気づいてあげられなくて、ごめんね」
「……いいよ。言わなかったし」
葵は、顔を覆ったまま、くぐもった声で言った。
「それに、今は、平気だから。学校も、ちゃんと行ってるし」
――ちゃんと、行ってる。
前の人生で、葵が学校に行かなくなったのは、高校3年の途中だった。
今、葵は高校3年生。12月。
毎朝、制服を着て、家を出ている。
「あとね」
葵が、顔を上げた。
目が赤かったけれど、まっすぐに母さんを見ていた。
「進路、決めた。来年の春から、イラストの専門学校に行きたい。……シエルも、続けながら」
母さんは、一瞬だけ驚いた顔をして、それから、ゆっくりと頷いた。
「……いいじゃない。葵の好きなことでしょう」
「学費、かかるけど……」
「お母さん、夜のバイト辞めても、ちゃんと貯金してるんだから。それに――」
母さんは、俺の方をちらりと見て、いたずらっぽく笑った。
「頼りになるお兄ちゃんもいるしね」
「……俺にたかる気か」
「冗談よ」
葵が、ぷっと吹き出した。
三人で、廊下にしゃがみ込んだまま、しばらく笑っていた。
◇
自分の部屋に戻って、「人生ロールバック計画」を開いた。
・葵:チャンネル登録者1万人突破(2018/12/19)
高校3年、通学継続中
→ 2019年4月から、イラスト系の専門学校に進学予定
打ち込んでから、ふと、指が止まった。
前の人生の母さんの遺品整理で見つけた、段ボール3箱分のスケッチブック。
あの中にいた、銀髪の女の子は、今、1万人に見守られて、画面の中で笑っている。
――段ボールの中には、もう、二度と戻さない。
俺は、画面を閉じて、電気を消した。
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