第36話 底値
12月15日、土曜日。
夜、自分の部屋で、久しぶりに取引所のアプリを開いた。
去年の12月に全部売ってから、一年。アプリは、ほとんど開いていなかった。
チャートを表示する。
1BTC=34万円。
「……ほんとに、ここまで来たか」
思わず、声が漏れた。
一年前の12月8日、230万円を超えていたビットコインは、この一年、ほとんど休むことなく下がり続けた。
1月の事件。2月の急落。夏に少し持ち直したかと思えば、秋からまた崩れて、11月にはついに50万円を割った。
ニュースは、もうビットコインのことをほとんど取り上げなかった。たまに取り上げるとしても、「仮想通貨バブルの崩壊」という、過去形の話ばかりだった。
テレビCMも、とっくに消えていた。
――そして、黒崎のサロンが流していた予言どおり、30万円台まで落ちた。
チャートを、もう少し詳しく見る。
前の人生の記憶では、2018年の年末の底値は、だいたい35万円前後だったはずだ。
でも、今日の安値は、34万円を割っていた。
――ほんの、少しだけ。
記憶より、低い。
数パーセントの違い。気のせいだと言われれば、それまでの差だ。
でも、8月のホテルのラウンジで、黒崎が言った言葉が、耳の奥で蘇った。
『未来は、知っている人間が多いほど、ずれていく』
黒崎のサロンの会員たちが、予言どおりに空売りを仕掛けた。その分だけ、底が、ほんの少し深くなったのかもしれない。
◇
ここから、ビットコインは、また上がり始める。
2019年の春から夏にかけて、一度大きく戻す。2020年の暮れからは、去年を大きく超える上昇が始まって、2021年には700万円を超える。
今の値段で買っておけば、3年後には、20倍以上。
――買うべきか。
頭の中で、計算が回る。
手元の貯金は、170万円ちょっと。来年の4月から、颯太に毎月20万円の給料を払う約束をした。まちオーダーの売上が伸びなければ、その分は、全部この貯金から出ていく。
今、ここで大きく買えば、颯太との約束が危うくなる。
それに――。
母さんとの、約束がある。
『12月で、終わりにしなさい』
『もう二度と、こういう博打みたいなことはしない。約束する』
一年前の11月、こたつで交わした約束。
◇
階段を降りると、台所で、母さんがお茶を飲んでいた。
除菌の治療を終えてから、母さんは、目に見えて元気になった。胃の重さがなくなって、ご飯をおいしそうに食べるようになった。
春には、除菌がうまくいったかを調べる検査も受けた。ピロリ菌は、ちゃんといなくなっていた。
夜の清掃のバイトは、春に辞めた。
「あら、どうしたの、こんな時間に」
「……母さん。ちょっと、相談がある」
俺は、母さんの向かいに座った。
そして、正直に話した。
ビットコインが、今、一年前の7分の1くらいまで下がっていること。ここから、また上がると思っていること。少しだけ、買いたいと思っていること。
母さんの顔が、みるみる曇っていった。
「……湊。博打はもうしないって、約束したでしょう」
「わかってる。だから、相談しにきた」
俺は、母さんの目を見た。
「全財産じゃない。10万円だけ。なくなっても、生活にも、仕事にも、何も影響が出ない金額だけ」
「10万円だって、大金よ」
「わかってる。だから、売るのは、早くても2年後。それまで、一切触らない。毎日チャートを見たりもしない。……タンスの奥にしまっておく、お守りみたいなものだと思ってほしい」
「お守り?」
「何かあったときの、保険」
――2020年の春。
世界が止まって、まちオーダーにも、商店街の店にも、何が起きるかわからない。そのときに、ほんの少しでも、手元に余裕があれば。
それは、言えなかった。
母さんは、湯飲みを両手で包んだまま、長いこと黙っていた。
やがて、深いため息をついた。
「……あんた、去年の年末に、正直に全部話してくれたものね」
母さんは、俺を見た。
「隠れてやらないで、こうやって相談しに来たのも、ちゃんとしてると思う」
「……」
「10万円だけ。2年は触らない。それと――」
母さんは、人差し指を立てた。
「これが、本当に最後よ。次に『また買いたい』って言ったら、お母さん、本気で怒るからね」
「……わかった。約束する」
◇
部屋に戻って、取引所のアプリを開いた。
10万円分。約0.29BTC。
去年の4月、全財産の28万円を賭けたときは、指が震えた。
今は、震えなかった。
これは、賭けじゃない。2年後の、未来への小さな保険だ。
購入ボタンを押す。
『注文が約定しました』
画面を確認して、そのままアプリを閉じた。
そして、スマホの設定画面から、取引所のアプリの通知を、すべてオフにした。
――2年後まで、見ない。
代わりに、「人生ロールバック計画」に、一行だけ書き残した。
・BTC 約0.29枚(10万円)購入(2018/12/15、1BTC=約34万円)
→ 2020年末まで触らない(母さんとの約束:これが最後)
・注意:2018年末の底値が、記憶より少し低い。ずれ始めている可能性あり
最後の一行を見つめる。
ずれ始めている。
もし、未来がずれていくなら。俺が知っている「2年後」も、本当に、その形でやってくるのだろうか。
答えは、わからない。
だからこそ、全部を賭けちゃいけないんだ。
スマホを伏せて、天井のへこみを見上げた。
――知識に頼り切った人間は、足元をすくわれる。
黒崎の言葉が、今夜は、やけに重く響いていた。
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