第35話 12月4日、100億円
12月4日、火曜日。
その日の朝のテレビは、どのチャンネルも、同じ話題で持ちきりだった。
『スマホ決済サービス「PayPay」が、総額100億円の還元キャンペーンを開始しました。支払額の20%がポイントで戻ってくるほか、40回に1回の確率で、全額が戻ってくる――』
画面には、家電量販店のレジに並ぶ長い列が映っていた。
ゲーム機、テレビ、高級なカメラ。みんな、スマホを片手に、大きな買い物をしている。
――始まった。
トーストをかじりながら、俺はテレビを見つめていた。
前の人生で、このキャンペーンのことは、よく覚えていた。たった10日間で、100億円の予算を使い切って終わった。日本中が、スマホで支払うということを、一気に覚えた10日間だった。
そして、このキャンペーンをきっかけに、キャッシュレスの流れは止まらなくなっていく。
2020年の春。人と人との接触を避けるために、現金に触れないことが、当たり前になる。
その入り口が、今日だった。
◇
その日の夕方。
柏木システムズのオフィスで作業をしていると、スマホが鳴った。
まるやの岡田さんからだった。
「湊くん、ちょっと聞きたいことがあるんだけど」
「はい、どうしました?」
「今日ね、お客さんに何回も聞かれたのよ。『ペイペイ使えますか』って。何のことか全然わからなくて……あれ、何なの?」
――来た。
「スマホで、お金を払う仕組みです。お店にQRコードの紙を置いておけば、お客さんがそれをスマホで読み取って、支払えます」
「へえ……。でも、そういうのって、お店がお金払わなきゃいけないんでしょう? 手数料とか」
「今は、お店側の手数料は無料です。しばらくの間は」
「無料? 本当に?」
電話の向こうで、岡田さんが驚いた声を上げた。
PayPayは、お店側の決済手数料を、当面の間無料にしていた。小さなお店にとっては、導入しない理由がほとんどない条件だ。
「申し込みは、少し手間がかかります。もしよければ、俺が手続きをお手伝いしましょうか」
「助かるわあ。お願いできる?」
◇
翌日。
まるやの手続きを手伝っていると、岡田さんが、申し訳なさそうに言った。
「あのね、湊くん。実は、商店街の他のお店からも、同じこと聞かれてるのよ。『まるやさん、あの学生さんに頼んでるんでしょう』って」
岡田さんは、メモ用紙を一枚差し出した。
商店街のお店の名前が、十軒近く書いてあった。
「みんな、お客さんに聞かれて困ってるの。でも、自分じゃどうしたらいいかわからないって」
――これだ。
「まちオーダー」の利用料は、月3,000円。でも、決済の導入の手伝いは、それとは別だ。商店街のお店とつながるきっかけになる。
「わかりました。全部、回ります」
その週、俺は颯太と手分けして、商店街のお店を一軒ずつ回った。
申込書を一緒に書いて、必要な書類を揃えて、QRコードの置き場所を決める。お店の人のスマホに、売上を確認するアプリを入れて、使い方を説明する。
どのお店でも、聞かれることは同じだった。
「本当に、手数料かからないの?」
「お客さん、本当にこれで払うの?」
「よくわからないけど、あんたたちがいてくれるなら、やってみるわ」
◇
12月の、第二月曜日。
メモ用紙の、最後の一軒。
商店街の入り口にある、一番古い八百屋。
『八百源』
店先で、振興会長の源さんが、段ボールの白菜を並べていた。
「……なんだ、兄ちゃんか」
源さんは、俺の顔を見て、ふん、と鼻を鳴らした。
「岡田のとこから聞いてる。ペイなんとかの話だろ。うちはいらねえよ」
「そうですか」
「うちの客は年寄りばっかりだって言ったろ。スマホで野菜買う年寄りなんて――」
「――おじいちゃん、ペイペイ使えないの?」
店先で、小学生くらいの男の子を連れた、30代くらいの女性が、困ったように言った。
「え?」
「ごめんなさい、今日、現金持ってなくて……。駅前のスーパーなら使えるみたいなので、そっちに行きます」
女性は、申し訳なさそうに頭を下げて、去っていった。
源さんは、その背中を、黙って見送っていた。
「……最近、ああいう若いのが増えてんだよ」
源さんが、ぽつりと言った。
「この辺も、新しいマンションが建って、若い夫婦が越してきた。昔の客は、年取って、だんだん来なくなる。新しい客は、駅前のスーパーに行っちまう」
源さんは、白菜を一つ手に取って、葉の具合を確かめるように見つめた。
「……時代が変わってくってのは、わかってんだよ。わかってんだけどな」
◇
「源さん」
俺は、源さんの隣に、しゃがみ込んだ。
「全部を変える必要はないと思います。お年寄りのお客さんは、今までどおり現金で。若いお客さんは、スマホで。どっちも選べるようにしておくだけです」
源さんは、黙っていた。
「手数料は、今はかかりません。紙を一枚、レジの横に置いておくだけです。使われなかったら、外せばいい」
「……」
「それと、もう一つ」
俺は、少しだけ迷ってから、言った。
「源さんのお店のお客さんで、足が悪くて、なかなか買い物に来られなくなった人はいませんか」
源さんの手が、止まった。
「……いる。何人も。昔は毎日来てた人が、腰を悪くして、来られなくなった。息子さんが、たまに代わりに買いに来るけどな」
「その人たちが、電話一本で、源さんに野菜を頼めて、配達してもらえたら、どうですか」
「……配達なんて、俺一人じゃ無理だ」
「週に一回でもいい。注文の受付と、配達のルートを決めるのは、俺たちの仕組みでお手伝いできます。注文は、電話でもいい。家族の人が、スマホで代わりに頼んでもいい」
源さんは、白菜を持ったまま、長いこと黙っていた。
やがて、それを段ボールに戻して、エプロンで手を拭いた。
「……ペイなんとかの紙、置いていけ」
「……!」
「それと、配達の話。一回、ちゃんと聞かせろ。今度の定例会でいい」
源さんは、そっぽを向いて、また白菜を並べ始めた。
「勘違いすんなよ。若い客を逃したくねえだけだ」
「はい」
俺は、深く頭を下げた。
◇
12月13日。
PayPayの100億円キャンペーンは、開始からわずか10日で、予算に達して終了した。
ニュースは、「異例の早期終了」と伝えていた。
でも、商店街のレジ横には、あのQRコードの紙が、十数枚、残った。
そして、源さんの店の前には、小さな手書きの貼り紙が増えていた。
『週一回 野菜の配達はじめました (注文受付:お電話または「まちオーダー」から)』
その貼り紙を見上げながら、颯太が呆れたように言った。
「……あのじいさん、半年前、ネットなんか若いもんの遊びだって言ってたよな」
「言ってたな」
「何がきっかけで変わるか、わかんねえもんだな」
――わかんねえもんだ。
本当に、そうだ。
未来の知識があっても、人の心が変わる瞬間までは、予測できない。
源さんを変えたのは、俺の知識じゃなかった。店先で、現金がなくて帰っていった、あの親子だった。
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