第32話 黒崎の招待
8月の終わり。
都心の高層ホテルの、最上階のラウンジ。
窓の外には、夕暮れの街並みが、ミニチュアのように広がっていた。
ふかふかのソファに座って、俺は、場違いな自分を持て余していた。Tシャツにチノパンの学生が来るような場所じゃない。周りは、スーツ姿のビジネスマンか、着飾った観光客ばかりだ。
「――待たせたね、相沢くん」
黒崎透が、向かいのソファに腰を下ろした。
夏なのに、黒いシャツ。腕時計は、たぶん、俺の年間の学費より高い。
「来てくれるとは思わなかったよ」
「……連絡したのは、俺の方です」
年明けの初詣以来、黒崎のことが、頭から離れなかった。
12月8日。233万円。1月26日。
あの男は、俺と同じものを知っている。
それが、どういうことなのか。確かめずにはいられなかった。
だから、去年の9月に勉強会でもらった名刺のアドレスに、メールを送った。
『一度、話を聞かせてください』
返信は、一時間もしないうちに来た。この場所と、この時間が書かれていた。
◇
「何か飲む? ここのコーヒーは悪くない」
「……結構です」
「そう」
黒崎は、ウェイターにアイスコーヒーを頼んでから、くつろいだ様子でソファにもたれた。
「君の友達。1月の事件、助かったみたいだね」
――え。
背筋が、凍りついた。
「桐生くん、だっけ。ビットコインの分は、事前に逃がしてたんだろう? NEMの方は、補償で八割戻った。……運がよかった。いや、運じゃないか」
「……どうして、それを」
「調べたんだよ。君のことを、少し」
黒崎は、悪びれもせずに言った。
「去年の4月、全財産で買って、12月8日に全部売った学生。気になるだろう? 俺以外に、そんな動きをする人間がいたら」
ウェイターが、アイスコーヒーを運んできた。黒崎はストローでかき混ぜながら、続けた。
「最近は、商店街で小さなアプリの商売をしてる。開業届も出した。妹さんは、VTuberを始めた。……ずいぶん、真面目な使い方をしてるね。せっかくの『知識』を」
◇
「――あなたは」
声が、かすれた。
「あなたは、何を知ってるんですか」
黒崎は、ストローから口を離した。
感情の読めない目で、じっと俺を見る。
「質問の意味が、よくわからないな」
「とぼけないでください。12月8日のことも、233万のことも、1月26日のことも――」
「相沢くん」
黒崎は、穏やかに遮った。
「お互い、それ以上は言わない方がいい。こういう場所で、変な話をしていると思われるのは、得策じゃない」
黒崎は、窓の外に視線を向けた。
「答え合わせをしたいなら、言葉じゃなくて、行動を見ればいい。君は俺の行動を見て、何かに気づいた。俺も、君の行動を見て、何かに気づいた。……それで十分だろう」
――答えになっていない。
でも、それが答えだった。
「今日、君を呼んだのは、提案があるからだ」
黒崎は、スマホを取り出して、画面を俺に見せた。
黒を基調にした、洗練されたウェブサイト。
『未来投資サロン ―確かな情報で、資産を守る―』
会員数:1,247名。月額会費:29,800円。
「……これは」
「俺がやってる、オンラインのサロンだ。仮想通貨や株の相場について、会員向けに情報を流してる」
黒崎は、淡々と言った。
「去年の12月、『8日前後が天井』とだけ書いた。1月には、『あの取引所から資産を移せ』とね。当たった。会員は、一気に増えた」
――月額29,800円。会員、1,247名。
計算するまでもなかった。月に、3,700万円以上。
「今は、『年末にかけて、ビットコインは30万円台まで下がる』と流してる。会員の何割かは、それに合わせて空売りで稼いでる。俺の手数料も、入る」
「……未来の知識を、売ってるんですか」
「情報を売ってるんだよ。どこにでもある商売だ」
黒崎は、肩をすくめた。
「相沢くん。君と俺が組めば、もっと稼げる。俺が知らないことを、君が知ってるかもしれない。君が知らないことを、俺が知ってるかもしれない」
黒崎は、少しだけ身を乗り出した。
「商店街で、月9,000円の商売をしている場合じゃないだろう?」
◇
ラウンジの空気が、急に重くなった気がした。
――月9,000円。
そこまで、調べているのか。
俺は、テーブルの下で、拳を握りしめた。
「……断ります」
「理由を聞いても?」
「俺は、未来を売るために戻ってきたんじゃない」
言ってから、しまった、と思った。
「戻ってきた」。
黒崎の口元に、ほんのわずかな笑みが浮かんだ。
「なるほど」
黒崎は、ソファにもたれ直した。
「君は、欲がないね。……いや、違うか。お金以外の、何か別のものが欲しいんだ」
「……」
「いいよ。無理強いはしない」
黒崎は、アイスコーヒーを飲み干して、伝票を手に取った。
「ただ、一つだけ、忠告しておく」
立ち上がりかけた黒崎が、俺を見下ろした。
「未来は、知っている人間が多いほど、ずれていく」
「……どういう意味ですか」
「12月8日の天井。君の記憶より、少しだけ早く、少しだけ低くなかったか?」
――。
息が、止まった。
あの日、チャートを見ながら感じた違和感。「記憶よりも、少しだけ早く下がり始めている気がした」。
「俺と君が、同じ日に、同じ場所で売った。それだけで、相場はほんの少し動く。会員が増えれば、もっと動く」
黒崎は、淡々と続けた。
「今はまだ、誤差だ。でも、俺たちが大きくなればなるほど、誤差は大きくなる。そのうち、記憶とまったく違う未来が来る」
黒崎は、伝票をひらひらさせながら、背中を向けた。
「その時、知識だけに頼ってる人間は、足元をすくわれる。……君も、俺もね」
ラウンジの出口に向かう黒崎の背中を、俺は、ソファから立ち上がれないまま見送った。
◇
帰りの電車の中。
窓ガラスに映る自分の顔を、ぼんやりと見つめていた。
――未来は、知っている人間が多いほど、ずれていく。
俺が戻ってきてから、変えたもの。
母さんの健診。颯太の資産。葵のデビュー。まちオーダー。
それは、全部、俺の周りの小さな変化だ。相場や世の中の大きな流れには、ほとんど影響しない。
でも、黒崎は違う。
1,247人の会員に、未来の情報を流している。その会員たちが、一斉に同じ方向に動けば。
世の中の流れそのものが、少しずつ、ずれていく。
スマホの「人生ロールバック計画」を開く。
・黒崎透:「未来投資サロン」運営(会員1,247名、2018/08時点)
→ 未来の情報を売っている
→ 俺のことを調べている(颯太、葵、まちオーダーまで)
→ 警告:「未来は、知っている人間が多いほど、ずれていく」
最後の一行を打ち込んで、手が止まった。
もし、未来がずれていくなら。
俺が知っている「2020年の春」も、本当に、その時に来るのだろうか。
電車が、トンネルに入った。
窓ガラスの中の自分の顔が、一瞬、黒く塗りつぶされた。
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