第31話 花火
8月の第一土曜日。
河川敷の花火大会は、浴衣姿の人たちでごった返していた。
「湊ー、こっちこっち!」
人混みの向こうで、結衣が手を振っていた。
紺色の浴衣に、白い帯。髪を上げて、小さな花の飾りをつけている。
――息が、止まりかけた。
「……浴衣、着てきたのか」
「せっかくだし。お母さんに着付けてもらったの」
結衣は、少し照れくさそうに袖を広げてみせた。
「変?」
「変じゃない。……似合ってる」
「ほんと? よかった」
結衣が、ふわっと笑った。
本当は、颯太も来る予定だった。でも、昼過ぎに「兄貴のバイト先の手伝いに駆り出された、マジごめん」とLINEが来た。
――本当に手伝いなのかどうかは、わからない。最近の颯太は、俺と結衣のことになると、妙にニヤニヤしている。
◇
屋台で、焼きそばとりんご飴を買った。
土手の斜面に、結衣が持ってきたレジャーシートを広げて、並んで座る。
花火が始まるまで、あと30分。
「インターン、どうだった?」
焼きそばをつつきながら聞くと、結衣は、少しだけ遠い目をした。
「……勉強には、なった」
「なった、けど?」
「うん……」
結衣は、りんご飴を両手で持ったまま、言葉を探すように川面を見つめた。
「会社の人たちは、みんな優しかったし、すごく上手だった。私なんか、全然かなわないくらい。でもね」
「うん」
「誰も、使う人の話をしてなかったの」
結衣は、ぽつりと言った。
「お客さんの会社の偉い人が、『もっとかっこよく』とか『うちのロゴ、もっと大きく』とか言うと、それに合わせて直す。使う人が見やすいかどうかより、お客さんが気に入るかどうかが大事なんだって」
――それも、知っている。
前の人生で、俺が関わったシステムのほとんどが、そうやって作られていた。使う人じゃなく、お金を払う人のために。
「お仕事だから、それが普通なんだと思う。わかってるの。でも……」
結衣は、りんご飴を一口かじった。
「岡田さんに『字が大きくて読みやすい』って言われたときの方が、ずっと嬉しかったなって」
俺は、黙って聞いていた。
口を挟まずに。結衣が言い終えるまで。
前の人生の俺は、こういうとき、すぐに「じゃあ、こうすればいいじゃん」と答えを出そうとした。結衣は、答えが欲しかったわけじゃないのに。
「……最後の日にね、その会社の社長さんに、『卒業したら、うちに来ないか』って言われたの」
心臓が、どくんと鳴った。
「すごいじゃないか」
「うん。嬉しかった。……でも、すぐには返事できなかった」
結衣は、膝を抱えて、俺の方を見た。
「ねえ、湊。もしね。もし、私が、湊のところで働きたいって言ったら……困る?」
◇
――困る、わけがない。
喉まで出かかったその言葉を、俺は飲み込んだ。
正直に、言わなければいけない。
「……今は、困る」
結衣の目が、少しだけ揺れた。
「まちオーダーの売上は、今、月に9,000円しかない。結衣に、ちゃんとした給料を払えない。結衣の人生を、俺の博打に巻き込むわけにはいかない」
「博打なの?」
「……少なくとも、今はまだ」
結衣は、しばらく黙って、川面を見ていた。
それから、小さく笑った。
「湊らしいね。そういうところ、正直なの」
「ごめん」
「謝らないで。……ちゃんと考えてくれてるって、わかるから」
結衣は、浴衣の袖で口元を隠した。
「卒業までに、考える。その会社に行くのか、別のところに行くのか。それとも……湊の会社が、ちゃんとした会社になるのを、待つのか」
「待つって」
「だって、湊、本気なんでしょ?」
結衣は、まっすぐに俺を見た。
「春から、ずっと見てたもん。湊が、本気で何かを作ろうとしてるの」
◇
ドン、と、腹の底に響く音がした。
夜空に、大輪の花が咲いた。
周りから、わっと歓声が上がる。
赤、金、緑。次々と打ち上がる花火が、川面に映って揺れていた。
結衣が、空を見上げて「わあ……」と小さく声を漏らした。
その横顔が、花火の光に照らされて、明るくなったり暗くなったりする。
――前の人生で、俺は、結衣と花火を見たことがあっただろうか。
思い出せない。
たぶん、なかった。誘われたことはあったかもしれない。でも、「人が多いのは面倒だ」とか言って、断ったんだ。きっと。
ふいに、シャツの袖が引っ張られた。
結衣の指先が、俺のシャツの袖を、そっとつまんでいた。
「……人、多いから。はぐれないように」
結衣は、花火を見上げたまま、そう言った。
耳が、赤くなっていた。
俺は、何も言わずに、袖をつままれたまま、花火を見上げた。
――好きだ。
ずっと前から。前の人生から、ずっと。
今、ここで言ってしまえば。
でも、言葉にしようとした瞬間、また、あの声が頭の奥で響いた。
『湊はさ、いつも私の話、聞いてないよね』
2020年の春。
あの春を越えられるだけの自分になるまで、まだ足りない。
今の俺には、結衣に給料を払うことすらできない。
「……来年も」
結衣が、ぽつりと言った。
「来年も、一緒に見ようね。花火」
「……ああ」
「約束だよ」
「約束だ」
最後の、一番大きな花火が、夜空いっぱいに広がった。
金色の光が、ゆっくりと降りてくる。
結衣は、まだ俺の袖を、つまんだままだった。
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