第28話 あの会社の求人票
4月。
専門学校の3年生になった。
最終学年の始まりは、どこか浮き足立った空気に包まれていた。
理由は、一つ。
就職活動だ。
IT系の専門学校では、3年生の春から本格的に就活が始まる。学校には毎日のように企業の求人票が届き、廊下の掲示板は、色とりどりの会社案内で埋め尽くされていた。
「なあ湊、合同説明会、一緒に行かねえ?」
昼休み、颯太が一枚のチラシをひらひらさせながら言った。
「来週の土曜。IT企業が50社くらい来るんだって」
「……俺は、いいよ」
「あー、そっか。お前、就活しないんだったな」
颯太は、少しだけ複雑そうな顔をした。
「俺は、とりあえず行ってみるわ。まちオーダー手伝うのはやるけど、それとは別に、ちゃんと就職先も考えとけって、兄貴がうるさくてさ」
「それでいいと思う」
本心だった。
まちオーダーは、まだ売上がほとんどない。颯太の人生を、今の段階で俺の博打に全部巻き込むわけにはいかない。
◇
その日の放課後。
掲示板の前を通りかかったとき、足が止まった。
一枚の求人票が、目に飛び込んできた。
『株式会社ネクストリンクソリューションズ
システムエンジニア(未経験歓迎)
・大手企業の基幹システム開発に携われます!
・研修制度充実! アットホームな職場です!
・初任給 20万円』
――息が、止まった。
手のひらに、じわりと嫌な汗がにじむ。
この会社だ。
前の人生で、俺が入社した会社。
「大手企業の基幹システム」は、元請けのさらに下請けの、さらに下で回ってくる仕事のこと。「研修制度充実」は、入社一週間でいきなり客先に放り込まれること。「アットホーム」は、上司が毎晩終電まで帰らないから、部下も帰れないこと。
初任給20万円。そこから8年経っても、手取りはほとんど増えなかった。
視界が、ぐらりと揺れた。
求人票の文字が、だんだん、2027年4月7日のモニターの赤いエラーログに重なって見えてくる。
サーバールームの冷たい空気。三上部長の怒鳴り声。缶コーヒーの空き缶。
――気持ち悪い。
口元を手で押さえて、廊下の壁にもたれた。
「……相沢? 大丈夫か」
声をかけられて、顔を上げた。
佐伯先生が、心配そうにこちらを見ていた。
◇
「ほら、水」
職員室の隅の、来客用のソファ。
佐伯先生が、紙コップの水を差し出してくれた。
「すみません。ちょっと、立ちくらみがして」
「顔色、真っ青だったぞ。……掲示板の、どの会社を見てた?」
ぎくりとした。
先生は、俺の顔をじっと見ていた。SIer出身の講師らしい、静かで、鋭い目。
「……ネクストリンク、です」
「ああ」
先生は、何かを察したように、小さく息を吐いた。
「毎年、うちの学校から何人か行ってる会社だ。採用には熱心でな。学校としても、断る理由がない」
先生は、少しだけ声を落とした。
「ただ、三年以内に辞める卒業生も、毎年何人かいる。……体を壊して辞めた子もいた」
「……そうですか」
「お前、あの会社のこと、何か知ってるのか?」
――知っている。
10年分、全部。
「……ネットで、少し調べたことがあって」
「そうか」
先生は、それ以上は聞かなかった。
代わりに、自分の紙コップのコーヒーを一口飲んで、言った。
「相沢。お前、就活はしないつもりだろう」
「……はい。自分で、仕事を続けたいと思ってます」
「開業届、出したんだってな。柏木社長から聞いた」
驚いて顔を上げると、先生は少しだけ口の端を上げていた。
「あの人とは、昔、同じ現場にいたことがあってな。コンテストの後、お前のことを聞かれた」
――そういうつながりだったのか。
「学校としては、本当は就職してほしい。就職率の数字があるからな」
先生は、肩をすくめた。
「だが、俺個人としては、止めはしない。お前は、たぶん、雇われる側に向いてない。……悪い意味じゃなくな」
「……ありがとうございます」
「ただし、一つだけ約束しろ」
先生は、真面目な顔になった。
「もし、うまくいかなくなったら、意地を張らずに相談に来い。卒業してからでもいい。この学校の卒業生は、いつまでも俺の生徒だ」
――前の人生で、俺は、誰にも相談しなかった。
相談できる相手がいるなんて、思ったこともなかった。
「……はい」
◇
職員室を出ると、廊下で結衣が待っていた。
「湊。佐伯先生のところにいたの? 顔色、大丈夫?」
「ああ、もう平気」
「よかった」
結衣は、手に一枚の紙を持っていた。
「あのね、私、インターンが決まったの。夏休みに、市内のWebデザインの会社で、二週間」
「……そうか。よかったな」
「うん。まだ就職するかはわからないけど、一度、本物の現場を見てみたくて」
結衣は、少しだけ不安そうに笑った。
「湊は、本当に就活しないの?」
「しない。まちオーダーを、ちゃんとした仕事にしたいんだ」
「……そっか」
結衣は、手元の紙を見つめた。
「湊がそう決めたなら、応援する。私も、インターンで勉強してきて、まちオーダーのデザイン、もっとよくするね」
「助かる」
「だって、私も一応メンバーだもん。屋号決めたの、三人でしょ?」
結衣は、いたずらっぽく笑った。
◇
帰り道。
駅前の交差点で、信号を待ちながら、もう一度あの求人票のことを思い出した。
ネクストリンクソリューションズ。
前の人生の俺は、あの求人票を見て「初任給20万なら悪くない」と思って、応募した。面接はたった一回。内定は、その日のうちに出た。
あの時、誰かが止めてくれていたら。
――いや。
止めてくれる人は、いたのかもしれない。佐伯先生だって、きっと何か言ってくれた。
俺が、誰の話も聞かなかっただけだ。
信号が、青に変わった。
横断歩道を渡りながら、心の中で、一つだけ誓った。
今度は、あの会社に、俺の大切な人を一人も行かせない。
――その誓いが、半年後に試されることになるとは、このときの俺はまだ知らなかった。
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