第26話 母の検査結果
2月の半ば。木曜日の午後。
総合病院の、消化器内科の待合室。
長椅子に並んで座って、俺と母さんは、診察室の扉の上の電光掲示板を見つめていた。
1月18日に受けた人間ドックの、結果説明の日だった。
「……あんた、学校は?」
「午後は自習。佐伯先生に言ってきた」
「わざわざ、ついてこなくてもよかったのに」
「来たかったんだよ」
母さんは、膝の上でハンドバッグの持ち手を握ったり離したりしていた。
人間ドックの日、母さんは「全然平気よ」と笑っていた。胃カメラも「思ったより楽だった」と言っていた。
でも、一週間後に病院から電話があった。
『検査の結果について、医師から直接ご説明したいことがあります』
その電話を受けた夜から、母さんの口数は少なくなった。
俺も、同じだった。
――まさか、もう。
前の人生で、母さんのがんが見つかったのは2023年。今は2018年。5年も早い。
でも、がんがいつから体の中にあったのかなんて、俺にはわからない。もしかしたら、もうこの時点で――。
考えれば考えるほど、手のひらに汗がにじんだ。
『相沢 美佐子さん。3番診察室へどうぞ』
電光掲示板に、母さんの名前が点った。
◇
診察室の医師は、50代くらいの、穏やかな顔をした男性だった。
「相沢さん、どうぞおかけください。息子さんも、どうぞ」
机の上のモニターに、胃の内側の写真が何枚も映し出されていた。
「まず、結論からお伝えしますね」
医師は、母さんの顔を見て、ゆっくりと言った。
「がんは、見つかりませんでした」
――。
母さんの肩から、すっと力が抜けるのがわかった。
俺も、気づいたら、止めていた息を吐き出していた。
「ただ、一つ、お伝えしておきたいことがあります」
医師は、モニターの写真の一枚を指さした。
「胃の粘膜に、慢性的な炎症があります。それと、血液検査で、ピロリ菌という細菌に感染していることがわかりました」
「ピロリ……?」
母さんが、首をかしげる。
「胃の中に住みつく細菌です。日本では、年齢が上の方ほど感染している方が多いんです。子どものころに、井戸水などから感染したと考えられています」
医師は、母さんにもわかるように、丁寧に言葉を選んでいた。
「このピロリ菌は、長く胃の中にいると、胃の粘膜に炎症を起こし続けます。そして、胃がんのリスクを高めることがわかっています」
――胃がん。
その言葉に、俺の背筋が凍りついた。
前の人生で、母さんの命を奪った病気。
医師は、それ以上は深刻な顔をせず、むしろ少し明るい声で続けた。
「でも、安心してください。ピロリ菌は、お薬で除菌できます。1週間、決められた薬を飲むだけです。除菌すれば、胃がんのリスクを下げられることが、研究でわかっています」
「……薬を飲むだけで、いいんですか」
「はい。ただし、除菌したからといって、リスクがゼロになるわけではありません。ですから、除菌したあとも、年に一度は胃カメラで確認することをおすすめします」
医師は、母さんの顔を見て、にっこり笑った。
「最近、胃が重いと感じることがあるとおっしゃっていましたよね。それも、この炎症が原因かもしれません。除菌すれば、楽になる可能性があります。……息子さんに連れてきてもらって、よかったですね」
◇
病院の会計を待つ間、母さんは、ずっと黙っていた。
処方箋の紙を、膝の上で大事そうに両手で持っている。
「……ねえ、湊」
「ん?」
「お母さんね、本当は、ちょっと怖かったの」
母さんは、処方箋に目を落としたまま言った。
「この前は『最近』なんて言ったけど、本当はね、胃が重いのも、食欲がないのも、何年も前からだったの。でも、病院に行って、何か悪いものが見つかったらどうしようって。見つかったら、仕事も休まなきゃいけないし、あんたたちに迷惑かけるし。……だから、見ないふりしてたの」
――前の人生でも、きっと、そうだったんだ。
何年も、見ないふりをし続けた。
そして、2023年に、もう見ないふりができないところまで来てしまった。
「でも、今日、先生に『よかったですね』って言われて」
母さんは、顔を上げて、俺を見た。
「本当に、よかったって思ったわ。……あんたのおかげね」
喉の奥が、熱くなった。
「……母さん」
「なによ」
「来年も、再来年も、ずっと毎年、検査受けてくれ。先生も言ってただろ。年に一度は確認しろって」
「はいはい、わかってるわよ」
「本当に、わかってる?」
「わかってるってば」
母さんは、呆れたように笑った。
「毎年、あんたが予約取ってくれるんでしょう?」
「……ああ。取る。毎年、絶対に」
会計の番号が呼ばれて、母さんが立ち上がった。
その背中は、少しだけ、軽く見えた。
◇
病院の帰り道。
薬局で受け取った、一週間分の薬の袋を、母さんは大事そうにバッグにしまった。
バスの窓から、2月の冷たい空が見えた。
ピロリ菌。
前の人生で、母さんの胃がんの原因がそれだったのかどうか、俺にはわからない。もしかしたら、関係なかったのかもしれない。除菌しても、いつか別の形で、何かが見つかるのかもしれない。
それでも。
今日、母さんの胃の中にあった「リスク」を、一つ消すことができた。
そして、母さんは、毎年検査を受けると約束した。
未来は、まだわからない。
でも、確かに、変わり始めている。
スマホの「人生ロールバック計画」を開く。
・母さん:人間ドック結果(2018/02/15)
がんなし。慢性胃炎、ピロリ菌陽性 → 除菌治療開始
→ 毎年1回、胃カメラを含む検査を受ける(約束済み)
「2023年までに、絶対に病院へ」
春に書いたその一行に、俺は、静かに線を引いた。
そして、その下に、新しい一行を書き足した。
・毎年、続ける。2023年を越えて、ずっと。
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