第25話 葵、デビュー
1月31日、水曜日。夜9時。
葵の部屋のドアの前で、俺と母さんは、並んで正座していた。
「……ねえ湊。お母さんたち、ここにいていいのかしら」
「葵が、『ドアの外にいて』って言ったんだ。中には入るなって」
「なんで外なの」
「……誰かが近くにいないと、怖いんだって。でも、見られるのはもっと恥ずかしいらしい」
母さんは、「難しい年頃ねえ」と小さく笑った。
ドアの向こうから、かすかにパソコンのファンの音が聞こえる。
今夜、葵がデビューする。
バーチャルYouTuber「シエル」として。
◇
年末に機材を揃えてから、一か月。
葵は、毎晩遅くまで部屋にこもって、準備を続けていた。
シエルのイラストを、目、まぶた、口、髪、体――数十のパーツに分けて描き直す。それを、顔の動きに合わせて動かせるように、一つずつ設定していく。
途中で何度も「もう無理」と言って投げ出しかけた。そのたびに、俺が技術的なところを一緒に調べて、また続けた。
声の練習もした。
最初は、パソコンのマイクに向かって「こんにちは」と言うだけで、顔を真っ赤にしていた。録音した自分の声を聞いて、「キモい」と言って布団に潜り込んだこともある。
それでも、葵はやめなかった。
そして、配信のやり方を決めた。
『お絵描き配信』。
シエルの姿で、イラストを描きながら、少しずつ喋る。ずっと喋り続けなくていい。黙っていても、描いている手元を見せていれば、配信になる。
「……それなら、できるかもしれない」
そう言ったときの葵の顔を、俺はたぶん、ずっと忘れない。
◇
午後9時。
ドアの向こうで、葵が、小さく深呼吸する音が聞こえた。
俺は、手元のスマホで、葵のチャンネルの配信ページを開いた。母さんが、横から画面を覗き込む。
画面の中に、銀髪の女の子が現れた。
空色の瞳。少し眠たげな目元。肩までの、ふわりとした髪。
シエルが、まばたきをした。
「……あら」
母さんが、小さく声を漏らした。
画面の中のシエルが、ゆっくりと口を開いた。
『――は、はじめまして。シエル、です』
ドアの向こうから聞こえる葵の声と、スマホから流れる声が、ほんの少しずれて重なった。
震えていた。消え入りそうな声だった。
『え、えっと……今日から、お絵描き配信、してみます。よろしく、お願いします』
視聴者数の表示:2人。
俺と――もう一人。
コメント欄に、文字が流れた。
『ソラさんの絵の子だ! 動いてる!』
葵のSNSのフォロワーだ。告知を見て、来てくれたらしい。
『あ……ありがとう、ございます……』
ドアの向こうで、葵の声が、少しだけ明るくなった。
◇
配信が始まって、20分。
画面には、シエルの横に、描きかけのイラストが映っていた。冬の空と、雪の積もった街並み。
葵は、ほとんど喋らなかった。ときどき「えっと」「ここは……」と小さく呟きながら、黙々と描いていく。
それでも、視聴者は少しずつ増えていった。
5人。8人。
『線きれい』
『作業BGMにちょうどいい』
『シエルちゃんの声、落ち着く』
コメントが流れるたびに、葵は『あ、ありがとうございます』と小さく答える。
ペンの音が、少しずつ、迷いなく走るようになっていった。
「……この子、こんなに上手だったのね」
母さんが、スマホの画面を見つめたまま、ぽつりと言った。
「葵、ずっと描いてたよ。小学生のころから」
「知ってたわよ。でも、こんなにちゃんと見たのは、初めてかもしれない」
母さんは、少し寂しそうに笑った。
「仕事ばっかりで、ちゃんと見てあげられてなかったのね」
「……これから見ればいいよ」
母さんが、俺の方を見た。
それから、ふっと笑って、俺の肩に自分の肩をぶつけてきた。
◇
配信の最後のほう。
視聴者数が、12人になった。
描き上がったイラストを画面いっぱいに映して、シエルが、たどたどしく言った。
『え、えっと、今日は、これで終わりです。……あの、12人も来てくれて、ほんとに、ありがとうございました』
コメント欄が、少しだけ賑やかになった。
『お疲れさま!』
『次も来ます』
『チャンネル登録しました』
『……また、来週も、やります。よかったら、また、来てください』
配信が、終わった。
ドアの向こうが、しんと静かになった。
しばらくして、カチャリと鍵の開く音がした。
ドアが細く開いて、葵が顔を出した。
目が、真っ赤だった。
「……12人、来た」
「見てたよ」
「お母さんも、見てたわよ。上手だった」
葵は、唇をぎゅっと噛んで、それから、ぼろぼろと泣き出した。
「12人も……知らない人が、私の絵、見てくれた……」
母さんが、葵を抱きしめた。
葵は、母さんの胸に顔を埋めて、子どもみたいに声を上げて泣いた。
俺は、廊下の壁にもたれて、その姿を見ていた。
――同接12人。
トップのVTuberたちから見れば、笑われるような数字かもしれない。
でも、前の人生で、誰にも見せられないまま段ボールに詰め込まれていた葵の絵は、今夜、12人の誰かに届いた。
それは、どんな相場の利益よりも、価値のある数字だった。
◇
その夜、寝る前に、葵のチャンネルを確認した。
チャンネル登録者数:23人。
スマホの画面を消して、目を閉じる。
「人生ロールバック計画」に書き込むのは、明日でいい。
今夜は、ただ、この数字を胸にしまっておきたかった。
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