第23話 1月26日
第2章「バブルの後始末」開幕です。
舞台は2018年。湊が知っている「あの日」から始まります。
2018年1月26日、金曜日。
その日は、朝から雨だった。
専門学校の3年生になるまで、あと二か月。後期の期末試験を来週に控えて、教室の空気はどこかぴりぴりしていた。
俺は、授業中ずっと、机の下でスマホを握りしめていた。
――今日だ。
前の人生の記憶では、この日の昼過ぎに、あの取引所でNEMの送金が止まる。夜になって、緊急の記者会見が開かれる。
でも、正確な時刻までは覚えていない。
颯太は、隣の席で普通にノートを取っていた。
年明けに何度も「NEMを移せ」と言った。そのたびに、颯太は「わかってるって」と笑って、結局、動かなかった。
1月の半ば、NEMの価格が少し持ち直したのも悪かった。颯太は「ほら、戻ってきたじゃん」と言って、さらに強気になっていた。
――あと一回だけ。
昼休み、俺は颯太を学食の隅に引っ張っていった。
「颯太。今日、今すぐ、NEMを売れ。売って、日本円にして、出金しろ」
「……湊、もういいって。年明けから何回目だよ、それ」
「頼む。今日だけでいい」
「今日だけって、なんだよそれ」
颯太は、困ったように笑った。
「わかったわかった。帰ったら考えるよ。今、アプリ開くと授業集中できなくなるし」
――帰ったら。
それでは、間に合わない。
◇
午後2時過ぎ。
四限目の途中で、ポケットのスマホが震えた。
ニュースアプリの速報だった。
『仮想通貨取引所、NEMの入出金を一時停止』
心臓が、どくんと鳴った。
来た。
机の下で、颯太の太ももを肘で突く。颯太が、怪訝な顔でこっちを見た。
俺は、スマホの画面を、颯太の方に傾けた。
颯太の顔から、すっと血の気が引いた。
◇
授業が終わった瞬間、颯太は教室を飛び出していった。
廊下の隅で、震える指でアプリを操作している。
「……NEM、売れない。送金もできない。注文が、全然通らない」
颯太の声が、かすれていた。
「なんで……。昼までは普通だったのに……」
俺は、何も言えなかった。
昼休み。あの時、颯太がアプリを開いていたら、間に合ったかもしれない。
でも、もう遅い。
◇
夜11時半。
テレビの臨時ニュースに、取引所の記者会見の映像が映っていた。
疲れ切った顔の経営陣が、深々と頭を下げている。
『――顧客から預かっていたNEM、約580億円相当が、不正に外部に送金されたことを確認しました』
580億円。
その数字が画面に表示された瞬間、スマホが震えた。
颯太からの着信だった。
「……湊」
電話の向こうの颯太の声は、聞いたことがないほど小さかった。
「お前の言ったとおりになった」
「……ああ」
「俺のNEM、全部、あそこにあったんだ。60万くらい。今、どうなってるのかもわかんねえ。返ってくるのかも、わかんねえ」
颯太が、乾いた笑いを漏らした。
「12月にさ、お前がビットコインの分だけでも移せって言ってくれなかったら、そっちも全部あそこにあったんだよな。……200万近く、全部」
「颯太」
「なんで、わかったんだよ」
電話の向こうで、颯太が息を吸う音がした。
「12月にも聞いたよな。お前、何を知ってんだよ。なんで、今日だってわかったんだよ」
――答えられない。
俺は、スマホを握りしめたまま、窓の外の雨を見ていた。
「……ごめん、颯太。俺がもっと強く言ってれば」
「違えよ」
颯太の声が、少しだけ大きくなった。
「謝んなよ。お前は何回も言ってくれた。俺が聞かなかっただけだ」
しばらく、沈黙が続いた。
雨の音だけが、窓を叩いていた。
「……なあ、湊」
「ん?」
「お前が何を知ってても、もう聞かねえ。たぶん、聞いても、俺には理解できねえことなんだろ」
颯太は、ぽつりと続けた。
「でも、一つだけ約束する。次にお前が『やめとけ』って言ったら、俺は、理由聞かずにやめる」
――前の人生の颯太は、最後まで、誰の言葉も聞かなかった。
今の颯太は、60万円を失いかけて、それでも、立ち止まると言った。
「……ああ。頼む」
電話を切ってから、俺はしばらく、ベッドの上に座り込んでいた。
半分は、救えた。
でも、残りの半分は、救えなかった。
未来を知っていても、すべてを変えられるわけじゃない。
それでも――前の人生よりは、ずっとましな夜だった。
そう思わなければ、やっていられなかった。
お読みいただきありがとうございます。
第2章、始まりました。
1月26日。
湊の警告は、颯太に届いていたのか――。
続きは明日21時に更新します。
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