第20話 母さんとの約束
12月24日、日曜日。クリスマスイブ。
夕食のあと、葵が自分の部屋に戻ったのを確認してから、俺は台所の母さんに声をかけた。
「母さん。ちょっと、いい?」
「なに、改まって」
母さんは、洗い物の手を止めて、エプロンで手を拭いた。
居間のこたつに、向かい合って座る。
俺は、一冊の通帳と、一枚の封筒をテーブルの上に置いた。
「……なによ、これ」
「12月8日に、ビットコイン、全部売った。約束どおり」
母さんの目が、通帳に落ちた。
俺は、最後のページを開いて見せた。
残高:4,662,644円。
「……」
母さんは、何も言わなかった。
ただ、数字の桁を、指でなぞるように数えていた。いち、じゅう、ひゃく、せん、まん。何度も、何度も。
「よん、ひゃく……」
「460万ちょっと。そのうち150万くらいは、税金と保険料で消える。だから、本当に使えるのは300万ちょっと」
「……あんた、これ、本当に……」
「本当だよ。悪いことは何もしてない。全部、ちゃんと申告する」
母さんは、通帳から顔を上げて、俺を見た。
何か言おうとして、口を開いて、また閉じた。
◇
「それで、こっちが本題」
俺は、封筒を母さんの前に滑らせた。
「開けてみて」
母さんが、恐る恐る封を開ける。
中には、一枚の紙。
『人間ドック 受診予約確認書
受診日:2018年1月18日(木)
受診者:相沢 美佐子 様』
「……え」
「5月に約束したよな。俺がちゃんと稼げるようになったら、俺の金で健診を受けてくれるって」
母さんの手が、紙を持ったまま止まった。
「近くの総合病院の、一番しっかりしたコース。胃カメラも、エコーも、がん検診も、全部入ってる。もう、お金も払ってある。キャンセルはできない」
「あんた……そんな、勝手に……」
「勝手にした。母さん、いつも『そのうち』って言うから」
俺は、真っ直ぐに母さんを見た。
「パートの休みも、その日はもう取れるように、シフトの話をしてきた。……店長さん、いい人だね。『お母さんにはいつもお世話になってるから』って、すぐ代わりの人を探してくれた」
「そこまで……」
母さんは、紙を握りしめたまま、うつむいた。
◇
「それと、もう一つ」
俺は、通帳の横に、もう一枚の紙を置いた。
来年度の学費の振込用紙。5月の夜に、母さんが電卓を叩きながら睨んでいた、あの紙と同じものだ。
「来年の学費は、俺が払う。もう振り込む準備もしてある」
「それは駄目よ!」
母さんが、はっと顔を上げた。
「学費は、お母さんが払うって決めてるの。あんたのお金は、あんたのために――」
「これが、俺のためなんだ」
言葉を遮った。
「母さんが、夜のバイトを減らせる。健診を受けられる。疲れたら、ちゃんと休める。……それが、俺のためなんだよ」
母さんの唇が、震えた。
「それに、俺がこれだけ稼いだせいで、来年、母さんの税金とか保険料が上がるんだ。俺が母さんの扶養から外れるから。その分も、俺が出す。じゃないと、母さんが損するだけになる」
「……そんなことまで、調べたの」
「調べた」
しばらく、居間に沈黙が落ちた。
冷蔵庫のモーター音。窓の外を走る車の音。
やがて、母さんが、小さな声で言った。
「……実はね」
母さんは、握りしめていた紙を、そっとテーブルに置いた。
「最近、ちょっとだけ、胃が重いなって思うことがあったの」
――え。
心臓が、どくんと跳ねた。
「たぶん、年のせいだと思うんだけど。疲れてると、なんだか食欲もなくて」
母さんは、困ったように笑った。
「でも、病院に行ったら、仕事休まなきゃいけないでしょう。お金もかかるし。だから、黙ってたの」
――知らなかった。
前の人生でも、母さんはこうやって、一人で抱え込んでいたんだ。何年も。誰にも言わずに。
2023年に見つかったときには、もう手遅れだった。
でも、今は2017年だ。
まだ、5年以上ある。
「……だから、行ってくれ。1月18日」
声が、かすれた。
「何もなければ、それでいい。安心できる。何かあっても、早ければ、何とかなる」
母さんは、俺の顔をじっと見ていた。
その目に、じわりと涙がにじんだ。
「……いつの間に、こんなに大きくなったのかしらね」
母さんは、エプロンの端で目元を押さえた。
「わかった。行くわ、1月18日」
「約束だぞ」
「約束よ。……もう、ずるい子ね。お母さんの逃げ道、全部ふさいじゃって」
母さんは、泣きながら笑った。
◇
「――あのさ」
居間の入り口から、声がした。
振り返ると、葵がパジャマ姿で立っていた。いつからそこにいたのか、目が真っ赤だった。
「……私も、なんか、できることある?」
母さんと俺は、顔を見合わせた。
それから、母さんが笑って、手招きした。
「こっちおいで、葵。ケーキ、まだ残ってるわよ」
三人でこたつに入って、少しだけ残っていたクリスマスケーキを分けた。
前の人生で、こんなふうに三人でクリスマスを過ごしたのは、いつが最後だっただろう。
思い出せなかった。
思い出せないくらい、ずっと前のことだった。
ケーキの甘さが、なぜか少しだけしょっぱかった。
お読みいただき、ありがとうございます!
次回は明日21時に更新します。
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