第18話 億じゃない
12月の第二月曜日。
口座に、取引所からの入金が反映された。
残高:4,712,644円。
取引所から戻ってきた455万円に、夏の三好工務店の報酬と、バイト代の残りを合わせた数字だ。
ATMの画面に表示された数字を確認して、俺はすぐにカードを財布にしまった。
浮かれている場合じゃない。
ノートを開いて、ペンを走らせる。
【税金・保険料用】150万円(手をつけない)
【来年度の学費】約120万円
【母さんの人間ドック】約5万円
【葵の配信機材】約20万円
【残り】約170万円
――170万円。
これが、俺が自由に使える、本当のお金だ。
大金なのは間違いない。でも、人生を変えるには、心もとない金額でもある。
もう一度ビットコインに全部突っ込めば、増やせるかもしれない。
俺は知っている。来年、ビットコインは一年かけて暴落し、年末には30万円台まで落ちる。そして2020年の暮れから、また信じられないような上昇が始まる。
底で買って、天井で売る。それを繰り返せば、数年で億に届くかもしれない。
――でも。
ペンを握る手が、止まった。
それで、何が変わる?
口座の数字が増えるだけだ。母さんの健康も、颯太の未来も、2020年に潰れていく商店街の店も、数字だけでは救えない。
お金は、道具だ。
大事なのは、その道具で、何を作るかだ。
◇
その週の水曜日。
俺は、駅前のオフィスビルの8階にいた。
『柏木システムズ株式会社』
ガラス張りの受付で名前を告げると、すぐに奥の応接室に通された。
「相沢くん。本当に来てくれたんだね」
柏木社長は、コンテストの時と同じ、仕立てのいいジャケット姿で現れた。
「突然すみません。相談したいことがあって」
「名刺を渡したのは私だ。遠慮はいらないよ」
社長は、コーヒーを勧めながら、向かいのソファに座った。
俺は、単刀直入に切り出した。
「卒業したら、会社を作りたいと思っています。コンテストで作った『まちオーダー』を、本当のサービスにしたいんです」
「……ほう」
「資金は、少しだけあります。自分で用意しました」
金額は言わなかった。社長も聞かなかった。
代わりに、社長は少し身を乗り出した。
「卒業は、いつだっけ」
「再来年の3月です。2019年の」
「じゃあ、一年以上あるわけだ」
社長は、コーヒーカップを置いた。
「相沢くん。一つアドバイスをしよう。卒業を待つ必要はない。今から、小さく始めなさい」
「……今から、ですか」
「税務署に開業届を出せば、学生でも個人事業主になれる。電話で、夏にホームページを作って報酬をもらったと言っていたね。そういう仕事を、事業として続けるんだ。売上も経費も、ちゃんと帳簿につける」
――そうか。
前の人生では、フリーランスになる前に会社員として潰れてしまった。開業届なんて、考えたこともなかった。
「会社を作るのは、その後でいい。最初から大きな器を用意しても、中身がなければ意味がない。まずは、お客さんを一人ずつ増やすことだ」
社長の言葉は、穏やかだったけれど、重かった。
「それと、もう一つ」
社長は、少しだけ声を落とした。
「うちみたいな会社から、仕事を回してほしいと思うかもしれない。実際、回せる仕事もある。でもね――下請けには、なるな」
息が、止まった。
「下請けの仕事は、楽だ。営業しなくても仕事が来る。でも、値段も、納期も、仕様も、全部上が決める。気づいたら、自分が何のために作っているのかわからなくなる」
社長は、窓の外のビル群に目を向けた。
「私も、若いころはそうだった。大手の三次請けで、毎晩終電で、誰が使うのかもわからないシステムを作っていた。……君には、ああなってほしくない」
――三次請け。毎晩終電。誰が使うのかもわからないシステム。
それは、前の人生の、俺そのものだった。
「……はい」
声が、かすれた。
「相沢くんは、使う人の顔を見て作れる人間だ。コンテストを見て、そう思った。その強みを、手放しちゃいけない」
◇
帰り道。
駅前の歩道橋の上で、立ち止まった。
眼下を、車のライトが流れていく。
前の人生の俺は、一度も「自分で選ぶ」ということをしなかった。
就職先も、仕事も、働き方も、全部、流されるままだった。気がつけば、元請けの都合に振り回されるだけの歯車になっていた。
今度は違う。
455万円は、ゴールじゃない。
スタートラインに立つための、最低限の切符だ。
スマホを取り出して、メモアプリを開く。
・開業届を出す(年明けすぐ)
・屋号:まちオーダー? → 颯太と結衣にも相談
・最初のお客さん:まるや、三好工務店
・商店街の他のお店にも声をかける
――億じゃない。
でも、今の俺には、これで十分だった。
歩道橋を降りながら、ふと思った。
颯太は、まだあの取引所に、全部置いたままだ。
今日のビットコインは、1BTC=190万円。12月8日の天井から、じわじわと値を下げている。
颯太は、まだ「年明けまで持つ」と言っている。
――次は、颯太の番だ。
1月26日まで、あと44日。
お読みいただき、ありがとうございます!
次回は明日21時に更新します。
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