第16話 12月8日
12月7日、木曜日。夜。
部屋の明かりを消して、俺はノートパソコンの画面だけを見つめていた。
チャートが、狂ったように跳ねていた。
12月に入ってから、ビットコインの上昇は加速していた。1日に10万円、20万円という値動きが当たり前になった。ニュースは毎日のように「最高値更新」を伝え、取引所には新規の口座開設が殺到して、アプリが重くなっていた。
そして今夜。
1BTC=180万円を突破したかと思うと、一時間も経たないうちに190万円。200万円。
「……来た」
200万円の大台を、あっさりと抜けていく。
手順書の「1」に、チェックを入れる。
取引所の注文画面を開いて、売り注文を置いていく。
0.47BTCを、220万円。
0.47BTCを、225万円。
0.47BTCを、230万円。
0.4817BTCを、235万円。
確認ボタンを押す指が、少しだけ震えた。
ビットコインキャッシュも、同じように売り注文を置く。こっちは、記憶がほとんどない。だから、今の価格の少し上で、さっさと売ることにした。
全ての注文が画面に並んだのを確認して、ノートパソコンを閉じた。
あとは、待つだけだ。
――眠れるわけがなかった。
◇
12月8日、金曜日。
一限目は、データベースの授業だった。
教壇で講師が、テーブルの正規化について説明している。俺は教科書を開いたまま、机の下でスマホの画面を見ていた。
1BTC=205万円。
朝方に少し下がって、また上がり始めている。
「……湊、見た? 200万だってよ」
隣の颯太が、小声で囁いてきた。目が血走っている。たぶん、颯太も一晩中チャートを見ていたんだろう。
「俺の資産、もう250万超えたわ。やべえ、マジでやべえ」
「颯太」
「ん?」
「今日、売れ」
颯太が、きょとんとした顔をした。
「今日? なんで今日なんだよ。まだまだ上がるって、ネットでも――」
「今日だ。全部じゃなくてもいい。半分でいい。今日、売れ」
俺の声が真剣すぎたのか、颯太は一瞬だけ黙った。
でも、すぐに笑って、首を振った。
「無理無理。こんな上がってるのに売るとか、もったいねえって。俺は年明けまで持つよ」
講師の視線がこちらに向いて、二人とも慌てて前を向いた。
◇
二限目。
スマホが、ポケットの中で短く震えた。
『注文が約定しました:BTC 0.47 価格 2,200,000円』
――一つ目。
心臓が、どくんと跳ねた。
机の下で、チャートを確認する。1BTC=221万円。まだ、上がっている。
三限目が始まる前の休み時間。
『注文が約定しました:BTC 0.47 価格 2,250,000円』
二つ目。
昼休み。
学食で、颯太と結衣と三人でラーメンをすすっていた。颯太は、ずっとスマホを見て、一人でにやけている。
「見ろよ、230万目前! これ、今日中に300万行くんじゃね?」
「颯太くん、ラーメン伸びるよ」
結衣が呆れたように言う。
俺は、箸を持ったまま、ポケットの振動を待っていた。
――ぶるっ。
『注文が約定しました:BTC 0.47 価格 2,300,000円』
三つ目。
思わず、目を閉じた。
あと一つ。235万円の注文だけ。
記憶にある最高値は、233万円。だとしたら、235万円には、届かないかもしれない。
どうする。
――手順書の「3」。天井を狙わない。8割取れれば十分。
わかっている。わかっているのに、指が動かない。
もし、この世界では240万円まで行ったら。250万円まで行ったら。
前の人生の颯太の声が、頭の奥で響いた。
『見ろよ湊、ビットコイン233万!』
あの笑顔が、一か月後にどうなったか。
「……湊? どうしたの、怖い顔して」
結衣が、心配そうに俺の顔を覗き込んでいた。
「いや……なんでもない」
俺はスマホをテーブルの下に下ろして、最後の注文を取り消した。
そして、今の価格で、残りの0.4817BTCに、成行の売り注文を出した。
――確認。
『注文が約定しました:BTC 0.4817 価格 2,286,000円』
四つ目。
全部、終わった。
◇
午後の授業の内容は、何一つ頭に入ってこなかった。
放課後、一人で駅に向かう途中、もう一度だけチャートを開いた。
1BTC=218万円。
昼過ぎに天井をつけてから、じわじわと下がり始めていた。
記憶どおりだった。
――いや、記憶よりも、少しだけ早く下がり始めている気がした。
ほんのわずかな違い。気のせいかもしれない。
でも、今朝、売り注文を置きながら、ずっと頭の隅にあった不安が、また顔を出した。
この世界に、俺と同じように「12月8日」を知っている人間がいたとしたら。
その人間が、俺と同じ日に、大量に売っていたとしたら。
天井は、少しだけ低く、少しだけ早くなるのかもしれない。
『俺は、年末までかな』
9月に聞いた、黒崎の声が、耳の奥で蘇った。
◇
駅のホームで、颯太にLINEを送った。
『今日、少しでも売ったか?』
既読は、すぐについた。
『売るわけねーじゃん(笑) まだ上がるって! 来年は億り人よ!』
スマホを握る手に、力が入った。
電車が、ホームに入ってくる。
冬の夕焼けが、窓ガラスを赤く染めていた。
俺は、勝った。
前の人生で一度も手にしたことのない額を、今日、手に入れた。
なのに、胸の奥にあったのは、喜びよりも、もっと冷たくて重い何かだった。
お読みいただき、ありがとうございます!
次回は明日21時に更新します。
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