第15話 100万円の夜
11月の終わり。日曜日の夜。
家族三人で、こたつを囲んで鍋をつついていた。
テレビでは、夜のニュース番組が流れている。
『――仮想通貨ビットコインの価格が、今日、初めて1BTC=100万円を突破しました。年初からの上昇率は、およそ9倍に――』
箸が、止まった。
画面には、真っ赤な数字と、右肩上がりのチャート。取引所の前でインタビューに答える、興奮した様子の若い男性。
『いやー、すごいっすね! まだまだ上がると思います!』
「……100万円」
思わず、声が漏れた。
知っていた。いつかこの日が来ることは。
でも、実際にニュースで見ると、手のひらにじわりと汗がにじんだ。
俺の1.89BTCは、今、約190万円。
4月に、28万円で買ったものが。
「ビットコインって、最近よく聞くわねえ」
母さんが、白菜を取り分けながら言った。
「お母さんのパート先でも、若い子が話してたわ。なんか、すごく儲かるんでしょう?」
「……まあ、儲かる人もいるね」
「お兄ちゃん、買ってるよね」
――え。
葵が、豆腐をつつきながら、さらっと言った。
「この前、お兄ちゃんの部屋の前通ったとき、画面に出てたもん。ビットコインって」
母さんの箸が、止まった。
◇
「……湊。本当なの?」
母さんの声が、少し低くなった。
葵が「あ、まずかった?」という顔で、俺と母さんを交互に見る。
――ごまかすか?
一瞬、そう考えた。でも、すぐに首を振った。
母さんに、嘘をつきたくなかった。前の人生で、母さんは俺に病気のことを隠した。俺は、母さんがどんな生活をしているのか、知ろうともしなかった。
隠し事は、もうたくさんだ。
「……本当だよ。4月に、少しだけ買った」
「少しって、いくら」
「28万」
「にじゅう……!」
母さんが、絶句した。
「あんた、それ、全財産じゃないの!」
「うん」
「なんでそんな危ないことするの! テレビでも言ってるじゃない、暴落したらどうするのって!」
母さんの声が、こたつの上で揺れる鍋の湯気を震わせた。
葵が、縮こまって小さくなっている。
「……まさか、あんた」
母さんの顔が、ふっと青ざめた。
「この前、学費のこと見たから。それで、こんなことしてるんじゃないでしょうね」
――図星だった。
何も言えなかった。
その沈黙が、答えになってしまった。
「……バカね」
母さんの声が、少し震えていた。
「あんたが、そんなこと心配しなくていいって言ったでしょ。お母さんがなんとかするから。あんたは、勉強してくれればいいの」
「なんとかって、どうやって」
思わず、言葉が強くなった。
「夜のバイト、増やすのか? 健診も受けないで? それで母さんが倒れたら、どうするんだよ」
母さんが、言葉を失った。
しまった、と思った。
でも、止まらなかった。
「俺は、もう嫌なんだ。母さんが一人で無理して、それに俺が気づかないのは」
――前の人生みたいに。
その言葉だけは、喉の奥に飲み込んだ。
◇
長い沈黙のあと。
母さんは、ゆっくりと箸を置いた。
「……それで、そのビットコインは、今いくらなの」
「190万くらい」
「ひゃく……」
母さんが、また絶句した。葵が「すご……」と小さく呟いた。
「でも、これは、まだ俺のお金じゃない。売るまでは、ただの数字だ」
俺は、真っ直ぐに母さんを見た。
「12月に、全部売る。それで、この話は終わりにする。もう二度と、こういう博打みたいなことはしない。約束する」
「……12月に、って。なんで12月なの」
「そこが一番高いと思うから」
「そんなの、わかるわけないでしょう」
「わかるんだ」
母さんは、じっと俺の目を見た。
俺も、目を逸らさなかった。
やがて、母さんは、深く、深くため息をついた。
「……あんた、本当に変わったわね。春くらいから」
結衣にも、同じことを言われた。
「なんだか、急に大人になったみたい。あんたのお父さんより、よっぽど大人に見えるわ」
母さんは、少しだけ寂しそうに笑った。
「わかった。12月で、終わりにしなさい。それと――」
母さんは、もう一度箸を手に取った。
「そのお金で、お母さんのことなんか考えなくていいからね。自分のために使いなさい」
――そう言うと、思った。
だから、俺は答えなかった。
代わりに、鍋の中のつみれを、母さんの器にそっと入れた。
◇
その夜。
部屋のノートパソコンで、新しいファイルを作った。
ファイル名は、『売却手順書』。
前の人生で、何百枚と書いてきた障害対応の手順書と、同じ形式だ。
【目的】
・BTC 1.8917枚、BCH 1.8917枚を、12月8日前後の高値で売却する
【前提】
・記憶にある最高値:約233万円(12月8日)
・ただし、記憶が正しい保証はない
・この世界には、俺と同じように「未来を知っている」可能性のある人物がいる(黒崎)
【手順】
1.200万円を超えたら、売り注文を分けて置き始める
2.220万、225万、230万、235万に、4分割で指値
3.天井を狙わない。8割取れれば十分
4.もし12月8日より前に急落したら(150万円割れ)、残りを即座に全て売る
【禁止事項】
・欲を出して「もっと上がるかも」と待たない
・売った後、相場を見て後悔しない
最後の項目を書いて、少し笑ってしまった。
禁止事項の二つ目。前の人生の颯太に、一番言ってやりたかった言葉だ。
画面を閉じて、ベッドに横になる。
天井の小さなへこみを見上げながら、俺は数を数えた。
12月8日まで、あと12日。
お読みいただき、ありがとうございます!
次回は明日21時に更新します。
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