第10話 妹はVになれる
8月の終わり。夏休みも、残り一週間。
夜の11時を過ぎても、葵の部屋の明かりは消えていなかった。
コンコン、とドアをノックする。
「……なに」
「アイス買ってきた。食う?」
少しの沈黙のあと、ドアが細く開いた。
部屋着姿の葵が、警戒した猫みたいな目で俺を見上げる。
「……何味」
「ソーダと、チョコ。好きな方」
「……チョコ」
ドアがもう少しだけ開いた。どうやら、入っていいらしい。
◇
葵の部屋に入るのは、たぶん何年ぶりかだった。
壁には、自分で描いたらしいイラストが何枚も貼られている。机の上には、使い込まれたペンタブ。床には、画集とスケッチブックが積み重なっていた。
「……あんまりジロジロ見ないで」
「悪い。全部、葵が描いたのか?」
「……そうだけど」
葵は、アイスの袋を破りながら、ベッドの端に座った。
俺は、机の上の液晶に映っている絵を見た。
銀髪の女の子。5月の夜に見た、あの子だ。前よりも、さらに描き込まれている。瞳の光の入れ方、髪のなびき方。表情が、生きていた。
「この子、名前あるのか?」
「……なんでそんなこと聞くの」
「なんとなく。キャラクターっぽいから」
葵は、しばらく黙ってアイスをかじっていた。
それから、ぽつりと言った。
「……シエル。フランス語で、空って意味」
「シエル、か。いい名前だな」
「……お兄ちゃん、ほんとに最近変だよね」
葵が、怪訝そうに俺を見る。
「前は、私が絵描いてても、何も言わなかったのに」
――胸が、ちくりと痛んだ。
そうだ。前の人生の俺は、何も言わなかった。妹が何を好きで、何に悩んでいるのか、知ろうともしなかった。
◇
「なあ、葵。これ、見たことあるか?」
俺は、スマホで一本の動画を再生した。
画面の中で、3Dの女の子が、明るい声で喋っている。
『はいどーもー! キズナアイです!』
「……あ、知ってる。バーチャルなんとか」
「バーチャルYouTuber。中の人が、キャラクターの姿で動画を作ってるんだ」
去年の終わりに活動を始めて、今、ネットで急速に話題になり始めている存在。
そして俺は、知っている。
この「バーチャルYouTuber」――VTuberという文化が、これから数年で、とんでもない規模に育っていくことを。年末には、このキズナアイのチャンネル登録者は100万人を超える。数年後には、VTuberの事務所が株式を上場するまでになる。
「これがどうしたの」
「お前の描いたシエルが、こうやって動いて、喋れたら、どう思う?」
葵の手が、止まった。
「……無理だよ。こういうの、3Dでしょ。すごいお金かかってるやつ」
「2Dのイラストを動かす技術もある。まだ珍しいけど、これからどんどん簡単になる」
「そういう問題じゃなくて」
葵は、アイスの棒を握りしめた。
「……声とか、出すの無理。私、人と話すの苦手だし」
「顔は出さなくていい。それがVTuberのいいところだ」
「声は出すじゃん」
「……まあ、それはそうだけど」
葵は、うつむいた。
しばらく、エアコンの音だけが部屋に響いていた。
「……クラスでさ」
葵が、小さな声で言った。
「絵描いてるの、キモいって言われたことある。オタクだって。だから、学校では描いてない」
――それか。
頭の中で、何かがつながった気がした。
前の人生で、葵が高校3年の途中から学校に行かなくなった理由。俺は、最後まで知らなかった。母さんも、きっと知らなかった。
でも、始まりは、きっとこういうことだったんだ。
好きなものを、好きだと言えない場所。
「葵」
「……なに」
「俺は、葵の絵、すごいと思う。お世辞じゃなく。この前見たときより、ずっと上手くなってる」
葵が、顔を上げた。
「学校で描けないなら、学校じゃない場所で描けばいい。ネットには、葵の絵を見たいって思う人が、絶対にいる」
「……そんなの、わかんないじゃん」
「わかるよ」
だって、俺は見たんだ。
前の人生で、母さんの遺品整理をしたあの日。段ボール3箱分のスケッチブック。誰にも見せられなかった、葵の10年分の絵を。
あれを、もう二度と、段ボールの中に閉じ込めさせない。
「いきなり喋らなくていい。まずは、シエルの絵を一枚、ネットに上げてみないか」
◇
その夜、日付が変わる少し前。
葵は、震える指で、一枚のイラストをSNSに投稿した。
アカウント名は「ソラ」。シエルを、日本語にした名前だ。
投稿ボタンを押した瞬間、葵はスマホをベッドに放り投げて、枕に顔を埋めた。
「……やっぱ消したい」
「まだ1分も経ってないぞ」
二人で、黙ってスマホの画面を見つめる。
5分。10分。何も起きない。
葵の肩が、だんだん小さくなっていく。
15分が過ぎたころ。
ぽん、と通知が一つ鳴った。
『○○さんがあなたの投稿をいいねしました』
葵が、がばっと顔を上げた。
ぽん。ぽん。
通知は、そのあとも、ぽつりぽつりと続いた。
朝までに、いいねは5つ。リツイートが1つ。そして、知らない誰かからの、短いコメントが1件。
『この子の目、すごく綺麗ですね』
翌朝。台所で、葵がスマホを握りしめたまま、トーストをかじっていた。
口元が、ほんの少しだけ、緩んでいた。
「……葵、なんかいいことあった?」
「別に」
母さんの問いに、葵はそっけなく答えた。
でも、俺と目が合った瞬間、葵は小さく、本当に小さく、頷いてみせた。
お読みいただき、ありがとうございます!
次回は明日21時に更新します。
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