第九話 クランクイン
クランクインの日は、金曜日に決まった。
理由は単純だった。
翌日が休みだから、多少遅くなっても気持ちに余裕がある。部活も比較的早く終わる。先生に校内撮影の許可を取りに行くにも、週末前の方が都合がいい。
そう言ったのは仁晃だった。
黒澤瞬は「なるほど」と頷いたが、本当は曜日のことなどあまり頭に入っていなかった。
ついに撮る。
そのことだけで、胸の中がずっと騒がしかった。
その日の放課後、四人は職員室の前に集まっていた。
瞬の手には、何度も書き直した企画書がある。仁晃が文章を整え、ライカが撮影場所と必要カットを追加し、カノンが「歌声の使用について」の項目を少しだけ柔らかい言い方に直した。
表紙には、こう書かれている。
```
文化祭上映予定
自主制作短編映画『屋上の歌』企画書
```
瞬はそれを持つ手に、少し汗をかいていた。
「大丈夫?」
カノンが小さく聞いた。
「大丈夫」
「声、硬いです」
「大丈夫じゃないかもしれない」
ライカが隣でカメラバッグを持ち直した。
「監督、最初の交渉」
「プレッシャーかけるな」
「かけてる」
「自覚ありか」
仁晃は企画書の予備を確認しながら言った。
「担任の佐伯先生は話を聞いてくれると思う。問題は屋上」
「そこだよな」
「安全管理があるから、たぶん無条件では無理」
「でも、頼む」
瞬は深呼吸した。
職員室の扉を開ける。
中は、放課後特有のざわつきに満ちていた。電話の音、プリントをめくる音、先生同士の会話。瞬は担任の佐伯先生を探した。
佐伯先生は三十代半ばの国語教師で、いつも眠そうな目をしている。けれど生徒の話は意外とちゃんと聞いてくれる人だった。
「佐伯先生」
「ん、黒澤。どうした」
「文化祭で上映する映画を撮りたいので、校内撮影の許可をいただきたいです」
瞬は一息で言った。
佐伯先生は瞬を見た。
それから、後ろに並んでいる仁晃、ライカ、カノンを見た。
「映画?」
「はい」
「お前たちが?」
「はい」
「急に青春してるな」
佐伯先生は少し笑った。
瞬は企画書を差し出した。
「企画書を作ってきました」
「おお、ちゃんとしてる」
先生は企画書を受け取り、ぱらぱらとめくった。
瞬はその間、妙に姿勢を正していた。
佐伯先生の指が、撮影場所の欄で止まる。
「屋上」
「はい」
「屋上はなあ」
やはり、そこだった。
「普段は生徒立入禁止だ。安全面の問題がある」
「わかっています」
「わかっているなら話は早い。勝手に入ったら怒る」
その言葉に、カノンがびくっとした。
瞬は横目でそれに気づいたが、何も言わなかった。
ここで余計なことを言うと、カノンまで巻き込むことになる。
「撮影時は、先生の立ち会いありでお願いします。必要なら、屋上では走りません。フェンスに登ったりもしません。撮影する範囲も決めます」
仁晃が横から補足した。
「撮影時間も事前に申請します。カット数も最小限にします」
ライカも言った。
「三脚を使う時は、通路をふさがないようにします。機材も最小限です」
カノンは少し迷ってから、小さく頭を下げた。
「ご迷惑をかけないようにします」
佐伯先生は四人を見た。
そして、企画書をもう一度見た。
「本気なのか」
「本気です」
瞬は答えた。
それだけは迷わなかった。
佐伯先生はしばらく黙っていたが、やがて職員室の奥を見た。
「生徒指導の先生と管理担当の先生に確認する。今日すぐ屋上は無理だ」
「はい」
「ただ、屋上以外の校内撮影は、他の生徒の迷惑にならない範囲なら許可する。放課後、廊下、階段、非常階段。撮影前に俺へ一声かけろ」
「ありがとうございます」
「屋上は来週まで待て」
瞬は頭を下げた。
「ありがとうございます!」
「声が大きい」
「すみません」
佐伯先生は少し笑って、企画書を手元に置いた。
「完成したら見せろよ」
「はい」
職員室を出た瞬は、廊下で大きく息を吐いた。
「通った」
「屋上以外はね」
仁晃が言った。
「でも、通った」
ライカがカメラバッグを肩にかけ直した。
「じゃあ、今日撮れるところから撮る?」
その言葉に、瞬の心臓が跳ねた。
「撮る」
カノンが少し緊張した顔をする。
「今日、本当に撮るんですね」
「うん」
瞬はカノンを見た。
「無理なら、今日はテストでもいい」
カノンは脚本を抱え直した。
「いえ。やります」
声は小さかった。
でも、はっきりしていた。
最初に撮ることになったのは、青年が階段で歌声を聞く場面だった。
屋上はまだ使えない。
だから今日は、屋上の扉が映らない範囲で、階段の踊り場だけを撮る。
青年が立ち止まる。
上を見上げる。
聞こえないはずの歌に耳を澄ます。
カノンは画面には映らない。少し離れた場所で、仮の歌を小さく歌うだけだ。
それでも、これが本番の一カット目だった。
ライカは三脚を立て、カメラを固定した。
ミニDVカメラと、自分の一眼レフ。
両方を使ってテストした結果、最初の場面はミニDVで撮ることになった。少しざらついた映像が、階段の古さと合っているとライカが言ったからだ。
「黒澤くん、階段の下から上がってきて、三段目で止まって」
「三段目」
「目線は最初、足元。歌が聞こえたら、ゆっくり上」
「ゆっくり上」
「聞こえた瞬間に顔を上げすぎると、わざとらしい」
「難しい」
「映画だから」
ライカはそう言って、液晶画面を覗いた。
仁晃はスマホに外付けマイクをつけ、録音の準備をしている。
「録音回すよ。廊下の音が入るから、タイミング見よう」
カノンは踊り場のさらに上、画面に入らない位置に立っていた。
緊張しているのか、両手でスカートの端を握っている。
「市川さん、大丈夫?」
仁晃が聞く。
「はい」
「歌は小さめでいい。あとで録り直すから、今は瞬に聞かせるためだけ」
「わかりました」
その言い方が少しおかしくて、瞬は顔を上げた。
「俺に聞かせるため?」
「青年に聞かせるため」
仁晃が訂正した。
「そうだった」
ライカがカメラの録画ボタンに指を置いた。
「じゃあ、いくよ」
階段の空気が変わった。
さっきまでただの放課後だった場所が、急に撮影現場になる。
瞬は階段の下に立った。
手のひらが汗ばんでいる。
主演男優。
その言葉が頭をよぎって、慌てて追い払う。
青年。
歌を聞く青年。
それだけ考えろ。
「録音、回ってる」
仁晃が言った。
「カメラ、回ってる」
ライカが続けた。
一瞬の沈黙。
「シーン一、カット一、テイク一」
仁晃が少し照れながら言った。
瞬は思わず笑いそうになった。
「アクション」
ライカの声。
瞬は階段を上り始めた。
一段。
二段。
三段目。
その時、上から歌が聞こえた。
カノンの声だった。
小さく、柔らかく、まだ歌詞もない旋律。
瞬は足を止めた。
予定通り、ゆっくり顔を上げる。
けれど、その途中で、本当に聞き入ってしまった。
この声を、最初に屋上の扉の前で聞いた時のことを思い出した。
誰も聞いていないと思っていたから歌えた。
その言葉も。
青年は、きっとこの声に触れてしまったのだ。
触れてはいけないと思いながら、離れられなくなった。
「カット」
ライカの声がした。
瞬は息を吐いた。
「どう?」
ライカは画面を確認している。
仁晃も横から覗き込む。
カノンが階段の上から不安そうに見ていた。
ライカは少しだけ黙ってから言った。
「もう一回」
「だめだった?」
「悪くない。でも、最初の足音が速い。歌を聞く前の黒澤くんが、歌を聞くって知ってる」
「知ってるからな」
「知らないで」
「無茶言う」
「映画だから」
三回撮り直した。
四回目で、ライカが頷いた。
「今のはいい」
瞬は階段に座り込んだ。
「短いカットなのに疲れる」
「撮影ってそういうものかも」
仁晃が録音データを確認しながら言った。
「僕も腕が疲れた」
「まだスマホ持ってるだけだろ」
「音響を甘く見ないで」
カノンが階段を下りてきた。
「あの、私の歌、大丈夫でしたか?」
「よかった」
瞬が即答すると、カノンは少し顔を赤くした。
「ありがとうございます」
ライカが画面をカノンに見せる。
「声だけだけど、雰囲気は出てる。あとでちゃんと録れば、もっと良くなると思う」
「ちゃんと録る……」
カノンは不安そうに繰り返した。
「急がなくていい」
仁晃が言った。
「歌詞もメロディも、これから一緒に考えよう」
「はい」
次に撮ったのは、青年が階段に座って目を閉じる場面だった。
何もしない芝居ほど難しい。
瞬はそれを思い知った。
「顔が考えすぎ」
ライカが言う。
「考えないように考えてる」
「それが顔に出てる」
「どうすればいい」
「聞いて」
「何を」
「歌」
カノンが上の階段で、また小さく歌う。
瞬は目を閉じた。
今度は芝居をしようとしなかった。
ただ聞いた。
声が階段に反響する。
校舎の外から、運動部の声が遠く聞こえる。
どこかで椅子を引く音がする。
放課後の学校の音の中に、カノンの歌が混じる。
瞬は、その中に座っていた。
「カット」
ライカの声が、今度は少し柔らかかった。
瞬が目を開けると、三人が静かにこちらを見ていた。
「何」
少し不安になって聞く。
仁晃が言った。
「今の、使える」
「本当か」
「うん」
カノンも小さく頷いた。
「私も、今の好きです」
瞬は急に恥ずかしくなって、目をそらした。
「主演男優、やるじゃん」
ライカが言った。
「調子に乗るぞ」
「少しなら」
「少し乗る」
そのあとも、撮影は続いた。
階段の足元。
手すりを握る手。
夕方の窓。
扉を見上げる目線。
ライカは思っていた以上に細かかった。
「もう少し左」
「そこで止まって」
「今の光、待って」
「廊下に人が通った。もう一回」
「黒澤くん、顔が監督に戻ってる。青年に戻って」
瞬は何度も階段を上り下りした。
仁晃は録音しながら脚本にメモを書き込んだ。
カノンは出番がない時も、自分の台詞を小声で練習していた。
気がつくと、窓の外は夕焼けになっていた。
「今日はここまで」
ライカが言った。
その一言で、全員が同時に息を吐いた。
撮影した映像を確認するため、四人は階段の踊り場に集まった。
ミニDVカメラの小さな液晶画面に、さっき撮った映像が映る。
階段を上がる青年。
歌声に足を止める。
上を見上げる。
目を閉じる。
ただそれだけの映像だった。
けれど、瞬は画面から目を離せなかった。
自分たちが撮った。
脚本の一行が、映像になっている。
それが、こんなにも不思議なことだとは思わなかった。
「映画だ」
瞬は小さく言った。
仁晃が隣で言う。
「まだ数カット」
「でも、映画だ」
ライカは液晶画面を見つめたまま、少しだけ笑った。
「うん。映画っぽい」
「それ、俺の台詞」
「借りた」
カノンも画面を覗き込んでいた。
「私の声、変じゃないですか?」
「変じゃない」
瞬と仁晃とライカの声が重なった。
カノンは驚いて、それから笑った。
「ありがとうございます」
その笑顔を見て、瞬は思った。
今日は、何かが始まった日だ。
企画書でも、役割表でも、読み合わせでもない。
実際にカメラが回った日。
時間が記録された日。
自分たちの映画が、光と音になった日。
片付けを終え、職員室に撮影終了の報告をしてから、四人は校門へ向かった。
空はすっかり暗くなりかけていた。
校門の前で、仁晃が言った。
「次は、少女が扉の向こうにいる場面だね」
「屋上の許可待ちだな」
瞬が答える。
ライカはカメラバッグを軽く叩いた。
「それまでに、今日の映像を取り込んで確認したい」
「取り込めるのか?」
「調べる」
「頼もしい」
「まだ調べるだけ」
カノンは脚本を胸に抱えていた。
「あの」
三人が振り向く。
「今日、少し怖かったです」
瞬は少し焦った。
「ごめん。やっぱり負担だった?」
「違います」
カノンは首を横に振った。
「怖かったけど、楽しかったです」
その言葉で、瞬の胸がふっと軽くなった。
「そっか」
「はい」
カノンは少し照れたように笑った。
「また、お願いします」
瞬は頷いた。
「こちらこそ」
その夜、グループチャットにライカから短い動画が送られてきた。
今日撮った最初のカットだった。
階段を上がる青年。
歌声に足を止める。
上を見上げる。
ほんの数秒。
瞬はそれを何度も再生した。
画質はざらついている。
音も少しこもっている。
照明も完璧ではない。
でも、その中に確かにあった。
自分たちの映画の、最初の息づかいが。
仁晃がメッセージを送ってきた。
「クランクイン、お疲れさま」
ライカが続ける。
「一日目、無事終了」
カノンも送る。
「ありがとうございました」
瞬は少し考えて、返信した。
「最後まで撮ろう」
すぐに、三人から返事が来た。
「撮ろう」
「撮る」
「はい」
瞬はスマホを伏せて、机の下のミニDVカメラを見た。
祖父のカメラ。
古い機械。
そこに、今日の自分たちが記録されている。
何もないと思っていた高校最後の一年に、初めてはっきりとした日付が刻まれた。
クランクイン。
映画は、もう始まってしまった。
【キャラクター紹介】
佐伯先生
瞬たちの担任で、国語教師。
三十代半ばで、いつも少し眠そうな目をしている。普段は肩の力が抜けた雰囲気だが、生徒の話は意外ときちんと聞いてくれる先生。
瞬たちが文化祭で上映する自主制作映画の企画書を持ってきた際、校内撮影の相談に乗る。屋上の使用には安全面から慎重な姿勢を見せつつも、彼らの本気を見て、可能な範囲で協力してくれる。
軽い冗談を交えながらも、要所では大人として必要な線引きをする人物。瞬たちの映画づくりを、少し離れた場所から見守っている。




