第八話 主演男優、黒澤瞬
市川カノンから返事が来たのは、二日後の夜だった。
黒澤瞬は自分の部屋で、祖父からもらったミニDVカメラをいじっていた。バッテリーは古く、充電してもどれくらい持つのかわからない。説明書はない。ボタンを押すたびに、小さな電子音が鳴る。
その時、スマホが震えた。
グループチャットではなく、仁晃からの個別メッセージだった。
「市川さんから返事が来た」
瞬はすぐに起き上がった。
「どうだった」
既読がつく。
数秒後、返事が来た。
「やってみたいって」
瞬は声を出しそうになった。
いや、少し出た。
「よし!」
部屋の外から母の声がした。
「うるさい」
「ごめん!」
瞬はスマホを握りしめた。
続けて、仁晃からメッセージが届く。
「ただし、条件あり」
「なんでも聞く」
「歌の録音は事前に相談。撮影した映像は公開前に本人確認。あと、演技は本当に初心者だから、怒らないこと」
「怒るわけない」
「瞬は勢いが強いから気をつけて」
「気をつける」
そのあと、グループチャットに新しいメンバーが追加された。
市川カノン。
アイコンは、青空を背景にした白い雲の写真だった。
カノンから、短いメッセージが送られてくる。
「よろしくお願いします。できる範囲で頑張ります」
瞬はすぐに返信した。
「よろしく!本当にありがとう!」
仁晃からすぐに注意が入る。
「感嘆符が多い」
ライカが続ける。
「圧」
瞬は慌てて打ち直した。
「よろしくお願いします。無理のない範囲で一緒に作りましょう」
カノンから、少し間を置いて返事が来た。
「はい。少し安心しました」
瞬はスマホを見つめたまま、ベッドに倒れ込んだ。
主演女優が決まった。
脚本家がいる。
カメラマンがいる。
歌う少女がいる。
映画は、確実に形になり始めている。
残る問題は、ひとつだった。
主演男優。
翌日の昼休み、四人は初めて全員で集まった。
場所はいつもの校舎裏のベンチだった。
瞬、仁晃、ライカ。
そして少し遅れて、カノンがやって来た。
カノンは両手で脚本を抱えていた。何度か読んだのだろう。端が少しだけ反っている。
「すみません、遅くなりました」
「全然」
瞬が言うと、仁晃が小さく頷いた。
「時間通りだよ」
「あ、そうなんですね」
カノンはほっとしたように座った。
ライカがカメラを膝に置いたまま、カノンを見る。
「脚本、どうだった?」
「好きです」
その一言に、仁晃の手が止まった。
カノンは慌てて続ける。
「あ、すみません。偉そうに聞こえたら」
「いや」
仁晃は少しだけ目を伏せた。
「ありがとう」
「屋上で歌っている理由が、はっきり言葉にされすぎてないところが好きでした。歌うことで何かを変えたいというより、歌わないと自分の中に置き場所がない感じがして」
仁晃は黙った。
瞬も黙った。
ライカだけが、小さく「わかる」と言った。
カノンは脚本を開いた。
「ただ、少女の台詞で少しだけ、言いにくいところがあって」
「どこ?」
仁晃がすぐにペンを構えた。
「ここです。『私の歌なんて、誰にも届かない』っていうところ」
「変?」
「変ではないです。でも、私だったら、そんなにはっきり言えないかもしれません」
「じゃあ、どう言う?」
カノンは少し考えた。
「『誰も聞いてないと思ってたから、歌えたのに』とか」
仁晃はすぐにメモした。
「そっちの方がいい」
「いいの?」
「うん。少女が生きてきた」
カノンは照れたように笑った。
瞬はそのやり取りを見て、胸の中が温かくなるのを感じた。
脚本が、仁晃だけのものではなくなっていく。
カノンの言葉が入ることで、少女が少しずつ現実の人間になっていく。
「で」
ライカが紙パックのストローをくわえながら言った。
「男優は?」
空気が止まった。
瞬は視線をそらした。
仁晃はクリップボードを見た。
カノンは不思議そうに三人を見る。
「まだ決まってないんですか?」
「はい」
仁晃が正直に答えた。
「演劇部は難しかったし、他にも声をかけたんだけど」
ここ数日、三人は何人かに相談していた。
クラスで目立つ男子。
文化祭実行委員の知り合い。
軽音部の先輩。
写真部の幽霊部員。
結果は、全滅だった。
「映画? 面白そうだけど忙しい」
「人前に映るのは無理」
「台詞覚えるの面倒」
「文化祭前はバイト」
「黒澤がやれば?」
最後の一言は、何人にも言われた。
そして、そのたびに瞬は曖昧に笑ってごまかしていた。
ライカが瞬を見る。
「候補なら、いるよね」
「誰?」
瞬はわざと聞いた。
「黒澤くん」
「俺は監督」
「兼主演」
「簡単に言うな」
「簡単じゃないのは知ってる」
ライカは淡々と言った。
「でも、テスト映像は悪くなかった」
「あれは、たまたま」
「たまたまでも撮れてた」
仁晃も静かに口を開いた。
「僕も、瞬がやるのが一番いいと思ってる」
「ニコまで」
「青年は、何かを始めたいけど始められない人だよね」
「うん」
「それ、瞬が一番わかってる」
瞬は言葉に詰まった。
それは、ずるい言い方だと思った。
否定できない。
この映画の青年は、瞬から生まれている。
屋上で歌う少女を見つめながら、声をかけられない青年。
何かをしたいのに、最初の一歩が怖い青年。
それは、少し前までの自分だった。
「でも、監督が主演やったら、自分の演技を見られないんだろ」
「だから私が撮る」
ライカが言った。
「演技の確認は撮ったあとにできる。現場では、私と小津くんで見る」
「僕も見る」
仁晃が頷いた。
「台詞のニュアンスは一緒に調整できる」
カノンが遠慮がちに手を上げた。
「あの」
三人がカノンを見る。
「私は、黒澤くんが相手の方が少し安心かもしれません」
瞬は驚いた。
「俺?」
「はい。知らない演劇部の人よりは」
「ああ、そういう」
「それに」
カノンは脚本に視線を落とした。
「黒澤くんは、たぶん嘘をつくのが下手そうなので」
「褒めてる?」
「褒めてます」
「本当に?」
「たぶん」
ライカが小さく笑った。
仁晃も口元を隠している。
瞬は頭をかいた。
逃げ道が、どんどんなくなっていく。
いや、逃げ道をなくしているのは自分かもしれない。
映画を撮りたいと言った。
完成させると言った。
仲間を集めた。
カノンにも頼んだ。
それなのに、自分だけが「怖いから嫌だ」と言うのは、違う気がした。
「俺、芝居なんてしたことないぞ」
「全員初めて」
ライカが言った。
「台詞、覚えられるかわからない」
「短い」
仁晃が言った。
「変だったら?」
「変だったら撮り直す」
ライカが言った。
「カノンがやりにくかったら?」
「言います」
カノンが言った。
瞬は三人を見た。
みんな、待っていた。
急かしてはいない。
でも、逃がすつもりもなさそうだった。
瞬は大きく息を吸った。
「わかった」
その一言を言うだけで、妙に体が熱くなった。
「やる。俺が主演男優をやる」
仁晃がクリップボードにペンを走らせた。
```
主演男優:黒澤瞬
```
未定の文字が消える。
瞬はそれを見て、少し怖くなった。
自分の名前が、そこにある。
監督の欄にも。
主演男優の欄にも。
「監督兼主演」
ライカが言った。
「大変だね」
「今さら怖くなってきた」
「いいんじゃない」
「何が」
「怖い方が、ちゃんと映るかも」
ライカはカメラを持ち上げた。
「今日、読み合わせしよう」
「今日?」
「決まったなら、試す」
「早い」
「映画は時間がない」
仁晃が脚本を配った。
四人は校舎裏のベンチで、初めての読み合わせをすることになった。
カノンは少女の台詞に付箋を貼っている。
瞬は青年の台詞を目で追った。
思ったより少ない。
けれど、少ないからこそ逃げ場がない。
```
青年「……いつも、ここで歌ってるの?」
少女「聞いてたんですか」
青年「ごめん」
少女「誰も聞いてないと思ってたから、歌えたのに」
```
瞬は声に出した。
「……いつも、ここで歌ってるの?」
自分の声が、思ったより硬かった。
ライカが即座に言う。
「尋問みたい」
「初回から厳しい」
「聞きたいけど、聞いてはいけない気もしてる感じ」
「難しい」
仁晃が補足する。
「青年は、少女の歌に救われている。でも、それを言う資格が自分にあるかわからない」
「もっと難しい」
カノンが少し笑った。
「私もやってみます」
カノンは脚本を持ち直した。
「聞いてたんですか」
声が小さい。
けれど、その小ささがよかった。
責めているというより、本当に恥ずかしそうだった。
瞬は一瞬、台詞を忘れそうになった。
「……ごめん」
今度は自然に出た。
ライカがカメラを構える真似をする。
「今のよかった」
「本当か?」
「本当」
仁晃も頷いた。
「瞬は考えすぎない方がいいかも」
「考えない演技」
「言い方」
読み合わせは、思ったよりもぎこちなかった。
瞬は何度も台詞の出だしを間違えた。
カノンは台詞の途中で笑ってしまった。
仁晃は言葉の順番をその場で直し始め、ライカは「その位置だと光が悪い」と言って二人を何度も移動させた。
それでも、楽しかった。
台詞が声になる。
紙の上の青年と少女が、目の前に立ち始める。
その瞬間に立ち会っていることが、瞬には不思議で仕方なかった。
放課後。
四人は非常階段へ移動した。
ライカの提案で、短いテスト撮影をすることになった。
場面は、青年と少女が初めて会話するシーン。
もちろん屋上ではない。
非常階段の踊り場を、屋上の扉前に見立てる。
カノンは緊張していた。
瞬も同じくらい緊張していた。
仁晃はブームマイク代わりに、スマホの録音アプリを起動して持っている。
「じゃあ、いくよ」
ライカがカメラを構えた。
「三、二、一。アクション」
瞬は階段の下に立っていた。
上から、カノンが降りてくる。
目が合う。
台詞。
「……いつも、ここで歌ってるの?」
カノンは脚本通り、一歩止まる。
「聞いてたんですか」
「ごめん」
カノンは視線を落とした。
「誰も聞いてないと思ってたから、歌えたのに」
その声が、瞬の胸に落ちた。
台詞なのに、台詞じゃないみたいだった。
瞬は次の台詞を言う。
はずだった。
言葉が出ない。
ライカはカメラを止めなかった。
仁晃も止めなかった。
カノンが不安そうに瞬を見る。
その顔を見て、瞬はようやく口を開いた。
「……でも、聞こえてよかった」
台本とは違う台詞だった。
カノンの目が少し揺れた。
数秒の沈黙。
「カット」
ライカの声がした。
瞬は我に返った。
「あ、ごめん。台詞飛んだ」
仁晃は脚本を見ていた。
「今の」
「悪かった?」
「いや」
仁晃はペンを取り出した。
「採用するかも」
「え?」
「『でも、聞こえてよかった』。青年の台詞として、いい」
カノンも小さく頷いた。
「私も、今の方が返しやすかったです」
ライカはカメラの画面を確認している。
「映像も悪くない。二人とも緊張してるけど、それが場面に合ってる」
瞬は階段の手すりに寄りかかった。
心臓がまだ速い。
芝居をする。
撮られる。
誰かの目の前で、自分ではない誰かになる。
それは、想像していたよりずっと怖かった。
でも、嫌ではなかった。
むしろ、もう一回やりたいと思ってしまった。
「監督」
ライカが言った。
瞬は顔を上げた。
「何?」
「主演男優、悪くないよ」
その言葉に、瞬は笑った。
「カメラマンに言われると、信じそうになる」
「信じていい」
仁晃がクリップボードを見せた。
役割表には、もう未定がなかった。
```
監督:黒澤瞬
脚本:小津仁晃
カメラ:北野ライカ
録音:小津仁晃
主演男優:黒澤瞬
主演女優:市川カノン
```
瞬はその表を見つめた。
空白が消えた。
それだけなのに、急に怖くなる。
もう、言い訳ができない。
撮るしかない。
完成させるしかない。
夕方の非常階段に、四人の影が伸びていた。
瞬は祖父の言葉を思い出す。
下手でもいいから、最後まで撮れ。
今なら、その意味が少しだけわかる。
下手でもいい。
怖くてもいい。
ぎこちなくてもいい。
最後まで、この時間を撮り切る。
瞬はクリップボードから顔を上げた。
「クランクインの日を決めよう」
誰も反対しなかった。




