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第七話 屋上の歌声

 企画書というものは、思っていたよりも地味だった。


 翌日の昼休み、黒澤瞬は校舎裏のベンチで、仁晃が作ってきた企画書の下書きを眺めていた。


```

自主制作短編映画『屋上の歌』企画書


上映予定:文化祭

予定尺:10分程度

撮影場所:校内

必要役者:主演男優1名、主演女優1名

撮影予定日:未定

完成予定日:文化祭一週間前

```


「未定、多くない?」


 瞬が言うと、小津仁晃はペンを動かしながら答えた。


「だから埋める」


「企画書って、夢を書く紙じゃないんだな」


「現実を書く紙だね」


 北野ライカはベンチの端で一眼レフの設定画面を見ていた。


「夢だけだと、人を呼べないから」


「重い」


「昨日、演劇部で学んだでしょ」


「学んだ」


 瞬は素直に頷いた。


 映画は、気持ちだけでは撮れない。


 場所がいる。時間がいる。人がいる。許可がいる。


 そして今、一番足りないのは役者だった。


「主演女優、歌える人がいいんだよな」


「うん」


 仁晃が頷く。


「演技は多少ぎこちなくても、歌に説得力があった方がいい。脚本の中心が歌だから」


「カラオケ上手いやつとか?」


「人前で歌えるかは別だけどね」


 ライカが言った。


「あと、カメラの前で歌えるかも別」


「難しいな」


「難しい」


 瞬は空を見上げた。


 校舎の向こうに、屋上のフェンスが見える。


 あの向こう側に立つ少女を、ずっと想像している。


 でも現実には、まだ誰もいない。


「昨日の歌声」


 瞬はぽつりと言った。


 仁晃が顔を上げる。


「まだ言ってる」


「聞こえたんだって」


「僕は聞こえなかった」


「私も」


 ライカも首を横に振った。


「でも、聞こえた」


「どこから?」


「わからない。上の方から」


「上?」


 三人は同時に校舎を見上げた。


 上。


 つまり、屋上。


 けれど屋上の扉には鍵がかかっている。生徒が勝手に入れる場所ではない。


「まさかね」


 仁晃が言った。


「でも、確認するだけなら」


「鍵は?」


「ない」


「じゃあ無理」


「階段まで行くだけ」


 瞬は立ち上がった。


「今?」


「今」


「昼休み終わるよ」


「五分だけ」


 仁晃はため息をついた。


「五分で済んだ試しがない」


 それでも、仁晃は企画書をクリップボードに挟み、ライカもカメラを持って立ち上がった。


 三人は屋上へ続く階段へ向かった。


 昼休みの校舎は騒がしい。教室から笑い声が漏れ、廊下では誰かが走って先生に注意されている。けれど屋上へ続く階段に近づくほど、人の気配は薄くなっていった。


 踊り場。


 窓から光が差し込んでいる。


 その上に、屋上の扉がある。


 やはり立入禁止の札が下がっていた。


 瞬は息をひそめる。


 何も聞こえない。


「ほら」


 仁晃が小声で言った。


「いないよ」


「しっ」


 瞬は耳を澄ませた。


 廊下のざわめき。


 遠くのチャイムの予告音。


 窓の外の風。


 その奥に。


 ほんのかすかに、声があった。


 歌だった。


 言葉までは聞き取れない。


 けれど、確かに誰かが歌っている。


 瞬は仁晃を見た。


 仁晃の表情が変わっていた。


「……聞こえる」


 ライカもゆっくり顔を上げた。


「上から?」


 歌声は、屋上の扉の向こうから聞こえているようだった。


 瞬の胸が強く鳴った。


 脚本の中の場面と、現実が重なっていく。


 青年が階段で歌を聞く。


 屋上から歌が聞こえる。


 まさに、その通りだった。


「誰かいる」


 瞬は扉に近づいた。


 ドアノブに手をかける。


 回らない。


 やはり鍵がかかっている。


「どうやって入ったんだろう」


 ライカがつぶやいた。


「別の入口?」


「屋上に?」


「設備用とか」


 仁晃が小声で言う。


 その時、歌が止まった。


 三人は固まった。


 扉の向こうで、何かが動く気配がした。


 足音。


 近づいてくる。


 瞬はとっさに一歩下がった。


 鍵の音がした。


 かちゃり。


 屋上の扉が、内側から開いた。


 光が差し込む。


 そこに立っていたのは、一人の女子生徒だった。


 色素の薄いセミロングの髪が、風で少し乱れている。背は高くも低くもない。制服のリボンが少し曲がっていて、手にはスマホと小さなイヤホンケースを持っていた。


 彼女は、扉の前に立つ三人を見て、目を丸くした。


「……え」


 瞬も同じように固まった。


 仁晃が小さく息をのむ。


 ライカだけが、反射的にカメラを構えかけて、すぐに下ろした。


 女子生徒は一歩後ずさった。


「あの、先生ですか?」


「違う」


 瞬は即答した。


「生徒です」


「それは見ればわかります」


「だよな」


 瞬は自分で何を言っているのかわからなくなった。


 仁晃が一歩前に出る。


「ごめん。歌が聞こえて、気になって」


 女子生徒の顔が赤くなった。


「聞こえてました?」


「少し」


「うわ」


 彼女はスマホを胸元に抱えた。


「最悪……」


「最悪じゃない」


 瞬は思わず言った。


 女子生徒が瞬を見る。


「え?」


「すごくよかった」


 言った瞬間、仁晃が横で目を閉じた。


 ライカが小さく「直球」とつぶやく。


 女子生徒はさらに赤くなった。


「いや、そんな、ちゃんと歌ってたわけじゃ」


「ちゃんと聞こえた」


「だから恥ずかしいんですけど」


「ごめん」


 瞬は慌てて頭を下げた。


「でも、本当にいい声だった」


 女子生徒は困ったように視線を泳がせた。


 逃げたい。


 その顔にはっきり書いてある。


 仁晃が静かに聞いた。


「君、三年の市川さん?」


 女子生徒は少し驚いた顔をした。


「そうです。市川カノンです」


「同じ学年だよ。僕は小津仁晃」


「本を読んでる人」


 仁晃が一瞬固まった。


「その認識、二人目なんだけど」


 ライカが手を上げた。


「北野ライカ」


「あ、写真を撮ってる人」


「うん」


 瞬も慌てて名乗った。


「黒澤瞬」


「背が高い人」


「俺だけ雑じゃない?」


 カノンは少しだけ笑った。


 その笑顔を見て、瞬はほっとした。


 完全に警戒されているわけではなさそうだった。


「屋上、入れるの?」


 ライカが聞いた。


 カノンは気まずそうに扉の内側を見た。


「本当は、あんまりよくないんですけど」


「あんまり?」


「先生に見つかったら怒られます」


「鍵は?」


「合唱部の備品を取りに行く時に、音楽準備室の先生から借りたことがあって。その時に、屋上の鍵が一緒についてるのを知って」


「つまり?」


「今は、借りてないです」


 三人は黙った。


 カノンは小さくなった。


「すみません」


「いや、俺たちも勝手に聞きに来たし」


 瞬は言った。


「そこは先生に怒られるやつだな」


「ですね」


 カノンは苦笑した。


 昼休み終了のチャイムが鳴った。


 カノンがはっとする。


「戻らないと」


「市川さん」


 瞬は呼び止めた。


 言うべきか、一瞬迷った。


 でも、このまま行かせたら、もう会えない気がした。


「俺たち、自主映画を撮ってる」


「映画?」


「うん。短編映画。文化祭で上映したくて」


 カノンは不思議そうに三人を見た。


「それで、主演女優を探してる」


 仁晃が小さく咳払いした。


「瞬、順番」


「あ、ごめん」


 ライカが淡々と言う。


「歌える人を探してた」


 カノンの顔がまた赤くなった。


「私、無理です」


 早かった。


「まだ何も言ってない」


「でも無理です。人前とか無理です。映画なんてもっと無理です」


「話だけでも」


「ごめんなさい」


 カノンはぺこりと頭を下げ、三人の横をすり抜けて階段を下りていった。


 足音が遠ざかる。


 瞬はその場に立ち尽くした。


「断られた」


「まだ正式に頼んでもない」


 仁晃が言った。


「でも、断られた」


「警戒されて当然だよ。突然、屋上の前で待ち構えてたみたいになってたし」


「待ち構えてはいない」


「結果的にそう見える」


 ライカは屋上の扉を見つめていた。


「でも、声はよかった」


「だよな」


「うん。映画の少女に合う」


 その言葉で、瞬の中に火がついた。


 屋上で歌う少女。


 それは、もう脚本の中だけの存在ではなくなっていた。


 市川カノン。


 あの声。


 あの、見つかって恥ずかしそうにする顔。


 瞬は階段の下を見た。


「頼もう」


「今日すぐはやめた方がいい」


 仁晃が即座に言った。


「なんで」


「怖がらせる」


「じゃあ明日」


「まず、ちゃんと企画書を作る。何をお願いするのか、どのくらい時間が必要なのか、歌はどう扱うのか。市川さんが不安に思いそうなことを先に書く」


 昨日、演劇部で言われたことと同じだった。


 誰かの時間を借りるなら、責任を持たなければいけない。


 瞬は頷いた。


「わかった。ちゃんと頼む」


 その日の放課後、三人は図書室の隅で企画書を書き直した。


 主演女優募集、という曖昧な言葉は消した。


 代わりに、市川カノンに向けた依頼書を作った。


```

お願いしたいこと

・短編映画『屋上の歌』の少女役

・劇中歌の歌唱

・可能であれば、歌のアイデア相談


撮影予定

・放課後中心

・1回1〜2時間

・無理な日は参加不要

・完成前に本人確認あり


約束

・嫌なカットは相談して変更する

・歌声を勝手に公開しない

・文化祭上映以外の使用は事前に確認する

```


 仁晃が文章を整え、ライカが必要な撮影内容を書き足し、瞬が何度も「お願いします」と書きそうになって止められた。


「重い」


 仁晃が言った。


「気持ちは大事だろ」


「重すぎると逃げられる」


 ライカも頷いた。


「市川さん、たぶん恥ずかしがりだから、圧をかけない方がいい」


「わかった」


 瞬はペンを置いた。


「圧をかけない。逃げ道を用意する。ちゃんと説明する」


「そう」


 翌日の放課後。


 三人は音楽室の近くでカノンを待った。


 ストーカーみたいにならないように、仁晃が事前に同じクラスの知り合い経由で「少し話したい」と伝えていた。


 数分後、カノンが来た。


 昨日より警戒した顔をしている。


「映画の話、ですよね」


「うん」


 瞬は深く頭を下げた。


「昨日は急に変なこと言ってごめん」


「いえ」


「今日は、ちゃんと説明したい」


 仁晃が依頼書を渡した。


「無理に出てほしいという話ではないです。読んで、嫌だったら断ってください」


 カノンは紙を受け取り、ゆっくり読んだ。


 瞬は黙って待った。


 昨日なら、何か言葉を足していたかもしれない。


 でも今は、待つしかないと思った。


 カノンは最後まで読んでから、少し困ったように笑った。


「すごく、ちゃんとしてますね」


「昨日、演劇部に怒られたから」


 瞬が正直に言うと、カノンは少し驚いて、それから小さく笑った。


「黒澤くんって、正直ですね」


「よく考えずに喋るとも言われる」


「それは、少しわかります」


「もう?」


「はい」


 カノンは依頼書に視線を落とした。


「私、歌うのは好きです。でも、人前で歌うのは苦手です」


「屋上で歌ってた」


「あれは、人がいないと思ってたからです」


「ごめん」


「それはもう大丈夫です」


 カノンは紙の端を指でつまんだ。


「お芝居も、やったことないです」


「俺たちも映画撮ったことない」


 ライカが言った。


「私も映像は初心者」


 仁晃も続けた。


「僕も脚本は初めて」


 瞬も言った。


「俺も監督は初めて」


 カノンは三人を見た。


「全員、初めてなんですか」


「うん」


「それで映画撮るんですか」


「撮る」


 瞬は即答した。


 カノンはしばらく黙っていた。


 廊下の奥から、吹奏楽部の音が聞こえてくる。


 夕方の光が、窓から斜めに差していた。


「少しだけなら」


 カノンが言った。


 瞬は息を止めた。


「少しだけ?」


「脚本を読ませてもらって、それで、できそうだったら」


「いいのか」


「まだ、やるとは言ってないです」


「わかった」


「あと、歌は……自信ないです」


「昨日の歌、よかった」


「それをまっすぐ言われると困ります」


「ごめん」


「でも」


 カノンは少しだけ視線を落とした。


「嬉しかったです」


 瞬は何も言えなくなった。


 仁晃が脚本を差し出した。


「これ、今のところの脚本です。少女の台詞はまだ調整できます。市川さんが読んで、言いにくいところがあったら教えてください」


 カノンはそれを両手で受け取った。


「読んでみます」


 ライカが少しだけ身を乗り出した。


「今度、歌ってるところを少しだけ撮らせてもらってもいい? テストで。公開しないから」


 カノンは慌てて首を横に振った。


「いきなりは無理です」


「じゃあ、声だけでも」


「それも、ちょっと」


「わかった」


 ライカはすぐに引いた。


「無理なら言って。撮られるのに慣れるところからでいい」


 カノンは少し安心したように頷いた。


 その帰り道、瞬はいつもよりゆっくり歩いた。


 まだ正式に決まったわけではない。


 カノンは脚本を読んでくれるだけだ。


 それでも、昨日まで空白だった主演女優の欄に、薄く名前が浮かんだ気がした。


 市川カノン。


 屋上で歌っていた少女。


 脚本から抜け出してきたみたいな人。


 夜、グループチャットに仁晃が役割表を送ってきた。


```

監督:黒澤瞬

脚本:小津仁晃

カメラ:北野ライカ

録音:小津仁晃

主演男優:未定

主演女優:市川カノン?(脚本確認中)

```


 瞬はその「?」を見つめた。


 たったひとつの記号なのに、胸が騒がしかった。


 ライカからメッセージが来る。


「歌声は本物だった」


 仁晃が続ける。


「問題は、断られないこと」


 瞬は少し考えて、返信した。


「ちゃんと待つ」


 送信してから、窓の外を見た。


 夜の空に、屋上は見えない。


 けれど、あの扉の向こうで聞いた歌声は、まだ耳の奥に残っていた。


 映画は、少しずつ現実に近づいている。


 瞬はそう思った。


 ただ、まだひとつ、大きな空白が残っている。


 主演男優。


 その欄が、まさか自分の名前で埋まることになるとは、この時の瞬はまだ本気では考えていなかった。


【キャラクター紹介】


市川カノン(いちかわ・かのん)

本作の主演女優。

色素の薄いセミロングの髪をした、やわらかな雰囲気の女子生徒。カラオケが趣味で、歌うことが好き。

人前で歌うのは苦手だが、ひとりになれる場所ではよく歌っている。屋上で歌の練習をしていたところを瞬たちに見つかり、自主制作映画『屋上の歌』の主演女優候補として声をかけられる。

芝居の経験はなく、最初はカメラを向けられることにも戸惑うが、撮影を通して少しずつ自分の声や表現と向き合っていく。

作曲にも興味があり、まだ始めたばかりながら、自分の歌を形にしたいと思っている。


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