第十話 夜の学校
撮影は、思っていたより順調に進んでいた。
クランクインから一週間。
階段の場面、非常階段の場面、少女が歌う声だけの場面、青年が遠くから扉を見上げる場面。
短いカットばかりではあったけれど、ライカのカメラには確かに『屋上の歌』の断片が増えていた。
黒澤瞬は、放課後の階段を何度も上り下りした。
市川カノンは、最初こそカメラを向けられるたびに固まっていたが、少しずつ台詞を自分の言葉のように言えるようになってきた。
小津仁晃は、脚本を直しながら録音をし、時々、音を拾うためだけに変な体勢で固まっていた。
北野ライカは、日に日に口数が増えた。
「そこ、半歩戻って」
「顔、光から逃げてる」
「今の沈黙、もう少しほしい」
「カノンさん、今の目線いい。もう一回」
「黒澤くん、監督の顔になってる。青年に戻って」
撮影が始まる前より、四人はずっとよく話すようになっていた。
ただ、順調だからこそ、欲も出てくる。
その日、いつもの校舎裏のベンチで、ライカが脚本に赤いペンで丸をつけた。
「ここ、夜に撮りたい」
瞬は紙を覗き込んだ。
そこは、青年が一人で校舎を歩く場面だった。
少女に「文化祭の日で、屋上で歌うのは最後にする」と告げられたあと、青年が誰もいない学校の中を歩く。
まだラストシーンが決まっていない今、その直前に置かれている、静かな場面だった。
「夜?」
「うん。放課後じゃなくて、夜の学校」
ライカは言った。
「昼の学校だと、ただ移動してるだけに見える。でも夜なら、青年が一人で迷ってる感じが出る」
仁晃が脚本を見ながら頷いた。
「確かに。ここは少し孤独にしたい」
「夜の学校って、撮影できるのか?」
瞬が聞くと、仁晃は冷静に答えた。
「普通はできない」
「だよな」
「でも、文化祭準備期間なら、先生が残っていれば少し可能性はある」
文化祭まで、あと一か月を切っていた。
校内は少しずつ落ち着かなくなっている。クラスの出し物、部活の発表、実行委員の会議。放課後の教室には、段ボールやペンキの匂いが増えてきた。
「佐伯先生に頼むか」
瞬が言うと、カノンが不安そうに手を上げた。
「夜って、何時くらいですか?」
「遅くまではやらない。せいぜい七時とか」
仁晃が答える。
「親の許可もいると思う」
「ですよね」
「無理なら、その場面は変える」
瞬はすぐに言った。
カノンは少し驚いた顔をした。
「いいんですか?」
「カノンが無理してまで撮るものじゃない」
そう言うと、ライカが小さく頷いた。
「夜の場面は、青年だけでも撮れる。少女は声だけでいいかも」
「声だけ?」
「廊下を歩いている時に、以前聞いた歌が頭の中で響いている感じ」
仁晃がすぐにメモを取った。
「それ、いい」
「じゃあ、夜の学校は俺だけ?」
「黒澤くんと、撮影する私と、録音の小津くん」
ライカが言った。
「カノンさんは、事前に歌だけ録る」
カノンはほっとしたように息を吐いた。
「それなら、大丈夫です」
瞬は立ち上がった。
「じゃあ、佐伯先生に頼んでくる」
「今?」
仁晃が聞く。
「今」
「勢いはあるけど、企画書を更新してから」
「……そうだった」
ライカが薄く笑う。
「監督、少し成長した」
「少しな」
その日の放課後、三人は職員室へ向かった。
カノンは音楽室で歌の練習があるため、先に帰った。
佐伯先生は企画書の追加ページを読んで、眠そうな目をさらに細めた。
「夜の学校ねえ」
「お願いします」
瞬は頭を下げた。
「撮影は一時間以内。廊下と階段だけ。走りません。騒ぎません。先生の立ち会いありでお願いします」
「ちゃんと言うことをまとめてきたな」
「演劇部で学びました」
「いい学び方してるじゃないか」
佐伯先生は少し笑った。
「文化祭準備期間で、俺が残ってる日ならいい。ただし十九時完全撤収。撮影場所は三階廊下と中央階段だけ。職員室に開始と終了を報告。あと、保護者には遅くなると連絡しておけ」
「ありがとうございます!」
「声が大きい」
「すみません」
「それと」
佐伯先生は企画書を閉じた。
「夜の学校は、思ったより怖いぞ」
その言葉を、瞬は少し大げさな冗談だと思っていた。
けれど、撮影当日。
十九時前の校舎は、本当に別の場所みたいだった。
昼間はあれほど騒がしい廊下が、しんと静まり返っている。
窓の外はすっかり暗く、ガラスには校内の蛍光灯が白く映っていた。遠くの教室からは、文化祭準備で残っている生徒たちの声が少しだけ聞こえる。けれど三階廊下には、瞬たち以外、誰もいなかった。
「……怖いな」
瞬が言うと、ライカはカメラの設定を見ながら答えた。
「佐伯先生、正しかったね」
仁晃はマイクを持ちながら、廊下の奥を見ていた。
「昼と同じ場所なのに、音が違う」
「音?」
「足音が響く。蛍光灯の音も入ってる」
瞬は耳を澄ませた。
ジジ、と小さく蛍光灯が鳴っている。
自分の呼吸まで聞こえそうだった。
佐伯先生は少し離れた階段の踊り場にいて、腕を組みながら見守っていた。
「黒澤、怖くなったら言えよ」
「怖くないです」
「今、ちょっと声が裏返ったぞ」
「気のせいです」
ライカが小さく笑った。
「じゃあ、撮るよ」
今日撮るのは、青年が一人で廊下を歩く場面。
少女の歌が聞こえない学校で、それでも歌の残響を探してしまう。
仁晃が書き直したト書きには、こうあった。
```
青年は、誰もいない廊下を歩く。
聞こえるはずのない歌を、まだ探している。
窓に映る自分の顔を見る。
青年は、自分が何を言いたいのか、まだわからない。
```
ラストシーンは、まだ決まっていなかった。
青年が少女に何を言うのか。
少女は最後に歌うのか。
二人は屋上で会うのか。
そこだけが、ずっと白紙のままだった。
「アクション」
ライカの声がした。
瞬は廊下を歩き始めた。
足音が響く。
一歩。
また一歩。
昼間なら何でもない廊下が、夜にはやけに長く見える。
窓に、自分の姿が映っていた。
黒いガラスの中の自分。
青年なのか、黒澤瞬なのか、少しわからなくなる。
カノンの歌は、ここにはない。
けれど耳の奥には残っている。
誰も聞いてないと思ってたから、歌えたのに。
でも、聞こえてよかった。
瞬は歩きながら、胸の奥が少し苦しくなるのを感じた。
映画の青年は、少女に何を言いたいのだろう。
自分は、カノンに何を言わせたいのだろう。
いや。
自分たちは、この映画で何を残したいのだろう。
「カット」
ライカの声で、瞬は立ち止まった。
ライカは画面を確認している。
仁晃も横から覗き込んだ。
「どう?」
瞬が聞く。
ライカは少し考えてから言った。
「もう一回。今の、少し演技してる」
「難しいな」
「うん。でも悪くない」
仁晃が脚本を見ながら言った。
「瞬、歩きながらラストのこと考えてた?」
「なんでわかる」
「顔に出てた」
「監督の顔?」
「半分、監督。半分、青年」
瞬は窓に映る自分を見た。
「ラスト、決めないとな」
「うん」
仁晃は静かに頷いた。
「でも、今日の撮影で見えるかもしれない」
二回目。
三回目。
廊下を歩き、窓を見る。
階段を下りる。
誰もいない教室の前で立ち止まる。
そのたびに、ライカは少しずつ角度を変えた。
「窓の反射、使いたい」
「黒澤くん、もっとゆっくり」
「そこで止まって」
「目線だけ左」
「今の沈黙、いい」
仁晃は音を録りながら、時々目を閉じていた。
カメラが回っていない間も、瞬たちは小声で話した。
夜の学校では、自然と声が小さくなる。
「なんか、秘密基地みたいだな」
瞬が言うと、仁晃が笑った。
「学校なのに」
「昼間はみんなの場所だけど、夜は借りてる感じがする」
「映画っぽい」
ライカが言った。
瞬は少し驚いて、彼女を見た。
「今、北野が言った」
「言った」
「感染したな」
「たぶん」
その時、廊下の奥で物音がした。
がたん。
三人は同時に固まった。
「……今の何」
瞬が小声で言う。
仁晃はマイクを握りしめた。
「録れた」
「そういう問題じゃない」
ライカはカメラを持ったまま、廊下の奥を見る。
暗い教室の扉が、少し開いていた。
瞬はゆっくり近づいた。
心臓がうるさい。
「誰かいますか」
返事はない。
扉を開ける。
教室には誰もいなかった。
ただ、窓際に立てかけてあった段ボールが倒れているだけだった。
おそらく風だ。
窓が少し開いていた。
「びっくりした……」
瞬が息を吐くと、後ろから佐伯先生の声がした。
「だから怖いって言ったろ」
「先生、驚かさないでください」
「俺は普通に歩いてきただけだ」
ライカがぽつりと言う。
「今の、使えないかな」
「使うのか?」
瞬が聞くと、ライカは倒れた段ボールと、暗い教室を見た。
「青年がふと教室を覗くカット。誰もいない教室。文化祭準備の途中のものだけが残ってる。卒業前の学校っぽい」
仁晃がすぐにメモを取った。
「入れよう」
「即決?」
「今のはいい」
佐伯先生が呆れたように笑った。
「お前たち、本当に映画撮ってるんだな」
瞬はその言葉に、少しだけ胸を張った。
「撮ってます」
撮影終了の五分前。
最後に撮ったのは、青年が廊下の窓に額を近づけるカットだった。
窓の向こうには、夜の校庭。
暗く沈んだグラウンド。
遠くに、街の明かり。
瞬はガラスに映る自分を見た。
その奥に、カノンの歌声を思い出す。
撮影には来ていないはずのカノンの声が、確かにこの場面の中にある気がした。
「カット」
ライカが言った。
しばらく、誰も動かなかった。
それから仁晃が小さく言った。
「今の、ラスト前に置きたい」
「ラスト前?」
「青年が、まだ答えを見つけられない場面」
瞬は頷いた。
「じゃあ、次で答えを見つけないとな」
「うん」
でも、その答えはまだなかった。
撮影を終え、職員室に報告して、三人は校門を出た。
夜の空気は少し冷たかった。
校舎を振り返ると、三階の窓に蛍光灯の明かりが残っている。
さっきまで自分たちがいた場所だ。
ライカがカメラバッグを抱え直した。
「今日、いいの撮れた」
「本当か」
「本当」
仁晃も頷いた。
「夜の学校、入れてよかった」
「怖かったけどな」
「怖かったね」
三人は少し笑った。
その時、瞬のスマホが震えた。
カノンからだった。
「撮影どうでしたか?」
瞬は少し考えて、返信した。
「怖かったけど、いいの撮れた。カノンの歌がないのに、歌が聞こえる感じがした」
しばらくして、返事が来た。
「それ、少し見てみたいです」
瞬は校舎をもう一度見上げた。
夜の学校。
誰もいない廊下。
聞こえない歌。
決まらないラスト。
映画は順調に進んでいる。
けれど、一番大事な最後の場面だけが、まだ暗い校舎の奥に置き去りにされているようだった。




