第十一話 決まらないラストシーン
ラストシーンだけが、決まらなかった。
撮影は進んでいる。
階段の場面も、夜の学校の場面も、少女が歌う場面も、少しずつ形になっている。北野ライカのカメラには、もう何本もの映像データが溜まっていた。
けれど、最後のページだけが白かった。
小津仁晃の脚本には、こう書かれている。
```
○屋上・夕方
少女は最後の歌を歌い終える。
青年は、少女を見る。
青年「 」
少女「 」
```
空白。
それが、何日も埋まらない。
「告白じゃないんだよな」
昼休み、校舎裏のベンチで、黒澤瞬は脚本を見ながら言った。
「少なくとも、恋愛の告白だけにしたくない」
仁晃が答えた。
「でも、見方によっては恋愛に見える」
ライカがいちごオレを飲みながら言う。
「屋上で歌う少女と、それを見つめる青年。どう撮っても少しはそう見える」
「それは悪くない」
仁晃はペンを回した。
「でも、最後に『好きです』って言ったら、全部それになる」
「それは違う気がする」
瞬は脚本を閉じた。
青年が少女に言いたいこと。
自分が、この映画で言いたいこと。
その二つが、ずっと重なりそうで重ならない。
カノンは少し離れた場所で、脚本の空白を見つめていた。
「私は」
三人が顔を上げる。
カノンは少し迷ってから言った。
「少女は、たぶん何かを言ってほしいわけじゃない気がします」
「言ってほしくない?」
「いえ。言ってほしくないわけじゃなくて……うまく言えないんですけど、歌を聞かれた時点で、もう少し変わっているというか」
カノンは脚本のページを指でなぞった。
「誰も聞いてないと思ってたから歌えた。でも、誰かが聞いていた。それが嫌だったけど、少し嬉しかった。だから最後に、青年が何を言うかより、少女が歌い終わったあとに逃げないことの方が大事な気がします」
仁晃は黙って聞いていた。
ライカも、カノンを見ていた。
瞬はその言葉を頭の中で何度も繰り返した。
逃げないこと。
「じゃあ、青年は?」
仁晃が聞いた。
「青年も、逃げないこと……なのかな」
カノンは自信なさそうに言った。
「今まで見ているだけだった人が、最後にちゃんとそこに立つ。言葉は、短くてもいい気がします」
「短く」
仁晃は脚本にメモした。
瞬は空を見上げた。
屋上のフェンスの向こうに、白い雲が流れている。
短い言葉。
逃げないこと。
でも、その短い言葉が見つからない。
放課後、四人は屋上にいた。
佐伯先生の立ち会いのもと、ようやく屋上撮影の許可が下りたのだ。
屋上は、瞬が想像していたより狭かった。
灰色の床。金網のフェンス。給水塔。古びたベンチ。校庭の向こうには、街の屋根と電線が見える。
でも、空は広かった。
それだけで、ここは特別な場所に見えた。
「思ったより普通ですね」
カノンが言った。
「普通だけど、空が近い」
ライカはすでにカメラを構えていた。
「夕方、絶対いい」
仁晃は脚本を持ったまま、フェンス際に立っている。
「ここでラストか」
「決めないとな」
瞬は答えた。
今日は、ラスト以外の屋上シーンを撮る予定だった。
少女が歌っているカット。
青年が初めて屋上に立つカット。
二人が少し離れて並ぶカット。
ラストの直前までは撮れる。
でも最後だけは、まだ撮れない。
「じゃあ、歌の場面から」
ライカが言った。
カノンは深呼吸をした。
最初の頃より、ずっと落ち着いている。それでも、歌う前だけは少し緊張した顔になる。
瞬はカメラの外に立った。
今は青年ではなく、監督として。
ライカがカメラを回す。
「アクション」
カノンが歌い始めた。
まだ完成版の主題歌ではない。
仮のメロディ。
けれど、屋上で聞くその声は、階段で聞いた時とも、録音で聞いた時とも違っていた。
空に抜けていく。
風に溶けていく。
誰にも聞かせないはずだった声が、今は確かにカメラの前にある。
瞬は、息をするのも忘れそうになった。
「カット」
ライカの声がしても、カノンはしばらく動かなかった。
「今の、よかった」
ライカが言った。
仁晃も頷いた。
「うん。すごくよかった」
カノンはほっとしたように笑った。
「よかった……」
瞬も何か言おうとした。
でも、言葉が出なかった。
よかった。
すごかった。
綺麗だった。
どれも違う気がした。
結局、瞬は言った。
「もう一回、撮らせて」
カノンは少し驚いて、それから笑った。
「はい」
撮影は順調だった。
ライカは光が変わるたびに立ち位置を微調整し、仁晃は風の音を気にしながら録音した。佐伯先生は少し離れた場所で腕を組み、「青春だな」と言いながらも、ちゃんと見守っていた。
けれど、ラストの話になると、空気が止まった。
「青年が、最後に少女へ言う」
仁晃が脚本を見ながら言った。
「ありがとう、は?」
瞬が言う。
「悪くない。でも少し普通」
「歌ってくれてありがとう」
「説明っぽい」
「また歌ってほしい」
「それだと、少女を引き止める話になる」
「じゃあ、聞こえてよかった」
「前に使った」
言葉を出しては消す。
書いては線を引く。
夕方の光が少しずつ傾いていく。
焦りだけが増えていった。
ライカがカメラを下ろした。
「無理に今日決めなくてもいいんじゃない」
「でも、屋上の許可は限られてる」
瞬は言った。
「今日撮れるなら撮りたい」
「決まってないものを撮っても、たぶん使えない」
ライカの言葉は静かだった。
でも、刺さった。
瞬は黙った。
仁晃も脚本を閉じる。
「ごめん。僕が書けてないから」
「違う」
瞬はすぐに言った。
「ニコだけのせいじゃない」
「でも、脚本は僕の仕事だよ」
「映画は全員の仕事だろ」
少し強く言いすぎた。
仁晃が口を閉じる。
カノンが不安そうに二人を見る。
ライカも何も言わなかった。
風の音だけが屋上を通り抜けていく。
瞬は自分の声が荒くなっていたことに気づいた。
「ごめん」
仁晃は首を横に振った。
「僕も、ごめん」
重い沈黙が落ちた。
映画を撮るのは楽しかった。
少しずつ形になるのが嬉しかった。
でも、完成に近づくほど、何を撮っているのかわからなくなる瞬間が増えていた。
最後を決めるということは、この映画が何だったのかを決めることだった。
それが怖かった。
その日の撮影は、予定より早く終わった。
屋上を出る前、瞬は一度だけ振り返った。
夕焼けの中に、フェンスが黒く浮かんでいる。
ここで、青年は何を言うのだろう。
何を言えば、この映画は終われるのだろう。
答えは出なかった。
夜、グループチャットは珍しく静かだった。
ライカが今日の映像を数秒だけ送ってくれた。
夕方の屋上で歌うカノン。
風に揺れる髪。
空へ抜けていく声。
瞬はその映像を何度も見た。
そして、気づいた。
少女はもう、十分にそこにいる。
歌も、表情も、沈黙も。
足りないのは青年の方だ。
青年が、まだ逃げている。
瞬はスマホを置いて、机の下のミニDVカメラを見た。
祖父のカメラ。
最初の日から、ずっとそこにある。
ふと思い立って、瞬は祖父に電話をかけた。
数回のコールのあと、祖父が出た。
「どうした、こんな時間に」
「じいちゃん」
「映画か」
「うん」
瞬は少し笑った。
「ラストが決まらない」
電話の向こうで、祖父が息を吐く音がした。
「そうか」
「じいちゃんたちは、どうやって決めた?」
「何を」
「映画の終わり方」
祖父はしばらく黙っていた。
それから、ゆっくり言った。
「覚えてないな」
「覚えてないのかよ」
「昔のことだ」
「青春の一ページなのに?」
祖父は笑った。
「だからだよ。細かいことは忘れる。台詞も、段取りも、どこで誰が失敗したかも、だいぶ忘れた」
「じゃあ、何を覚えてる?」
「最後の日のことだな」
「最後の日?」
「撮影が終わって、みんなで帰った。誰も大したことは言わなかった。ただ、終わったなあと思った。それだけは覚えてる」
瞬は黙った。
「映画のラストは忘れた。でも、撮っていた時間は覚えてる」
祖父の声は、少し遠く聞こえた。
「瞬」
「うん」
「きれいに終わらせようとしすぎるな」
「え?」
「終わり方なんて、あとから見ればたいてい気恥ずかしい。でも、その時に本当に言いたかったことなら、残る」
本当に言いたかったこと。
瞬は窓の外を見た。
夜の空に、学校の屋上は見えない。
「俺、何を言いたいんだろう」
「それを撮ってるんじゃないのか」
祖父はそう言った。
電話を切ったあと、瞬はしばらく動けなかった。
それを撮っている。
映画のラストを探しているのではなく。
自分が何を言いたいのかを、ずっと撮りながら探している。
翌日、瞬はいつもより早く学校へ行った。
誰もいない教室で、脚本の最後のページを開く。
空白の台詞。
青年「 」
瞬はシャーペンを持った。
けれど、まだ書けなかった。
チャイム前、仁晃が教室に入ってきた。
瞬の机の上の脚本を見て、少しだけ立ち止まる。
「書けた?」
「まだ」
「そっか」
「でも、少しわかった」
「何が?」
瞬は脚本を閉じた。
「ラストって、かっこいい台詞じゃなくていいのかもしれない」
仁晃は黙って続きを待った。
「青年が、逃げずにそこに立てばいい。少女の歌を聞いた自分として、ちゃんと」
仁晃はゆっくり頷いた。
「うん」
「でも、言葉はまだ出ない」
「じゃあ、探そう」
仁晃は自分の席に鞄を置いた。
「一人で決めなくていい。これは瞬の映画だけど、もう瞬だけの映画じゃないから」
その言葉に、瞬は少しだけ救われた。
昼休み。
四人はまた校舎裏のベンチに集まった。
昨日の気まずさは、完全には消えていなかった。
でも、誰も逃げなかった。
「ラスト、もう一回考えよう」
瞬が言った。
仁晃が頷く。
ライカもカメラを置いた。
カノンは脚本を開いた。
「私も、考えてきました」
「本当?」
「はい。でも、正解かはわからないです」
「正解はたぶんない」
瞬が言うと、カノンは少し安心したように笑った。
「少女は、最後に歌うのをやめるんじゃなくて、歌い終えるんだと思います」
カノンは静かに言った。
「逃げるんじゃなくて、自分で終わらせる。そのあと、青年が何かを言う」
「うん」
「その言葉で少女が救われる、というより……青年が初めて、自分の言葉を持つ」
仁晃がペンを止めた。
ライカが小さく頷く。
瞬は胸の奥が少し震えるのを感じた。
自分の言葉。
それが、まだない。
でも、探す場所は見えてきた気がした。
放課後のチャイムが遠くで鳴った。
校舎の上には、今日も屋上がある。
ラストシーンは、まだ決まらない。
けれど、もう完全な空白ではなかった。
空白の向こうに、誰かの歌が聞こえていた。




