第五話 三顧の礼
北野ライカから正式な返事は、まだ来ていなかった。
翌朝、黒澤瞬は教室の窓際の席で、スマホを何度も確認していた。画面には、昨日ライカが送ってくれた写真が表示されている。
夕空を背に、非常階段に立つ自分の影。
顔は見えない。
けれど、何度見ても不思議だった。
自分なのに、自分ではないみたいだった。
ただそこに立っているだけの写真なのに、まるで何かの始まりのワンシーンみたいに見える。
撮る人が変わると、世界の見え方が変わる。
それを知ってしまった。
だから、もう引き返せなかった。
「ニコ」
隣の席に来た小津仁晃に、瞬はスマホを見せた。
「やっぱり、北野にカメラをやってほしい」
「昨日からそれしか言ってない」
「昨日より強く思ってる」
「重症だね」
仁晃は鞄を机に置き、椅子に座った。
その手には、いつもの文庫本ではなく、クリップで留めた紙の束があった。
「それ、脚本?」
「一応、昨日の夜に進めた」
「読ませて」
「落ち着いて」
仁晃は紙の束を机に置いた。
表紙には、まだ仮題のままの文字が印刷されていた。
```
『屋上の歌』
脚本 小津仁晃
```
瞬はその文字を見ただけで、少し背筋が伸びた。
「印刷したのか」
「北野さんに読ませるなら、スマホより紙の方がいいと思って」
「本気じゃん」
「瞬が本気で頼むなら、こっちも最低限の準備はする」
仁晃は淡々と言った。
けれど、その声の奥に、照れのようなものが混じっていた。
瞬は紙の束を手に取った。
まだ薄い。
けれど、確かに脚本だった。
「ニコ」
「何」
「ありがとう」
「まだ完成してない」
「でも、ありがとう」
仁晃は少しだけ顔を背けた。
「……北野さんに見せる前に、昼休みに一回読むよ」
「わかった」
「あと、頼み方を考えた方がいい」
「頼み方?」
「昨日みたいに勢いで頭を下げるのも悪くないけど、相手の時間をもらうわけだから。何をお願いするのか、どこまで決まってるのか、ちゃんと伝えた方がいい」
「なるほど」
「それと、断られても食い下がりすぎない」
「三回まで?」
「どこから出てきたの、その基準」
「三顧の礼」
仁晃が目を瞬かせた。
「急に三国志?」
「大事な人には、三回頼みに行く」
「それ、相手が諸葛亮の場合ね」
「北野は諸葛亮かもしれない」
「カメラの諸葛亮」
「響きがいい」
「よくはない」
仁晃は呆れたように言ったが、少し笑っていた。
昼休み。
二人は校舎裏のベンチで脚本を読んだ。
瞬はメロンパンを片手に、仁晃が印刷した脚本をめくる。昨日よりも、物語はずっと形になっていた。
青年が階段で歌を聞く。
屋上の扉の向こうから、少女の声が聞こえる。
青年は声をかけられない。
翌日も、また来てしまう。
少女は歌う。
青年は聞く。
それだけの場面なのに、紙の上では静かに時間が流れていた。
「すごいな」
「さっきも言ってた」
「何回でも言う」
「じゃあ、百回までにして」
「映画っぽい」
「それも百回まで」
瞬はページをめくった。
途中、台詞のない場面があった。
```
青年は階段に座る。
屋上から歌が聞こえる。
青年は目を閉じる。
歌が止まる。
青年は目を開ける。
扉の向こうに、少女の影が立っている。
```
「ここ、いい」
瞬は指でその場面を示した。
「撮れるかな」
「撮りたい」
「扉の影、うまく出せるかな」
「北野ならできる気がする」
「まだ引き受けてない」
「だから頼む」
瞬は脚本を閉じた。
胸の中で、言葉が固まっていく。
ただ「やってほしい」では足りない。
自分は、なぜライカに撮ってほしいのか。
考えてみると、理由ははっきりしていた。
ライカは、瞬が見落としていたものを見つけられる。
ただの非常階段を、物語の場所に変えられる。
なら、この映画に必要なのは、綺麗なカメラではなく、あの目だった。
「今日、行こう」
瞬は言った。
「写真部?」
「うん」
「活動日だし、いると思う」
仁晃は脚本を封筒に入れた。
「じゃあ、一回目」
「三顧の礼の?」
「本当に三回行くつもりなんだ」
「必要なら」
放課後、二人は文化部棟へ向かった。
写真部の扉の前に立つ。
中からは、かすかに人の声が聞こえた。
瞬は一度深呼吸して、ノックした。
「はい」
返事があった。
扉を開けると、部室の中にはライカがいた。
もう一人、知らない男子生徒が机に突っ伏して寝ている。壁には写真が何枚も貼られていた。校舎、花壇、雨の日の窓、誰かの後ろ姿。棚には古いカメラ雑誌と、三脚が二本立てかけられている。
ライカは机の上で写真を選別していた。
「あ、昨日の」
「黒澤瞬です」
「知ってる」
「小津仁晃です」
「知ってる」
昨日と同じ返しだった。
瞬は一歩前に出た。
「北野、昨日の話なんだけど」
「映画?」
「うん」
仁晃が封筒を差し出した。
「脚本、途中までだけど書いてきた。読んでほしい」
ライカは封筒を受け取り、中から紙を出した。
表紙を見る。
「『屋上の歌』」
「仮題」
「ふうん」
ライカは一ページ目をめくった。
瞬はその様子をじっと見つめた。
ライカの目が、文字を追っていく。
表情はあまり変わらない。
けれど、ページをめくる速度は早すぎず、遅すぎず、ちゃんと読んでいる人のものだった。
部室の時計の音がやけに大きく聞こえる。
突っ伏していた男子生徒が一度だけ寝返りを打った。
数分後、ライカは紙を机に置いた。
「静かな話だね」
「うん」
仁晃が答えた。
「事件は起きないの?」
「今のところ起きない」
「爆発とか」
「ない」
「怪人は?」
「出ない」
瞬が言うと、ライカは少し首を傾げた。
「黒澤くん、怪人出したいの?」
「じいちゃんの映画には出てた」
「今回は出さない方がいいと思う」
「わかってる」
ライカはもう一度脚本に目を落とした。
「でも、絵は浮かぶ」
瞬は息を止めた。
「本当か」
「うん。階段と扉と光。あと、歌ってる人の顔を最初から見せない方がいいかも。声だけ先に出す。青年が顔を上げる。観客も、誰が歌ってるんだろうって思う」
仁晃がすぐにメモを取った。
「なるほど」
「あと、屋上が使えないなら、昨日の非常階段でも一部は撮れる。フェンス越しに空を入れれば、それっぽくなる。でも、全部そこだと狭い」
「屋上は、先生に頼む」
瞬が言った。
「頼むって、誰に?」
「担任とか」
「許可、簡単には出ないと思う」
「それでも頼む」
ライカは瞬を見た。
その目は、少し試すようだった。
「黒澤くんって、どうしてそこまで映画撮りたいの」
瞬はすぐには答えられなかった。
祖父のミニDVカメラ。
銀色のヒーロー。
気恥ずかしいが、それでも青春の一ページだったという言葉。
何もないと思っていた自分。
高校三年の春。
それらが頭の中でばらばらに浮かんだ。
「俺、高校三年なのにさ」
瞬はゆっくり言った。
「何もないんだよ」
ライカは黙っている。
仁晃も黙っていた。
「部活も本気でやってない。進路も決めきれてない。何かがすごく好きって胸を張れるものもなかった。卒業する時に、俺は何を思い出すんだろうって考えたら、何も浮かばなかった」
言葉にすると、思っていたより恥ずかしかった。
でも、止めなかった。
「じいちゃんが昔撮った自主映画を見たんだ。正直、めちゃくちゃ下手だった。変な特撮で、台詞も古くて、効果音も口で言ってて」
「ちょっと見たい」
「今度な」
瞬は少し笑った。
「でも、楽しそうだった。本気だった。見てたら、俺も何か残したいって思った」
「映画を?」
「うん。映画を。上手くなくてもいいから、最後まで作りたい」
部室の中が静かになった。
窓の外から、運動部の掛け声が遠く聞こえる。
ライカは脚本の表紙を指で軽く叩いた。
「私は、写真は好き」
「うん」
「でも、映像はほとんど知らない。動画機能も、試しに猫を撮ったくらい」
「猫?」
「近所の」
「かわいかった?」
「かわいかった。でも映画にはならなかった」
ライカは真面目な顔で言った。
「だから、期待されすぎると困る」
「期待はする」
「困るって言ったのに」
「でも、上手く撮ってほしいっていうより、北野に見つけてほしいんだと思う」
「何を?」
「俺たちが見落とすもの」
瞬は昨日の写真を思い出した。
「昨日、非常階段で撮ってくれた写真、ただ俺が立ってるだけなのに、なんか物語みたいだった。北野は、ああいうのが見えるんだろ。俺には見えない」
ライカは目を伏せた。
ほんの少し、頬が赤くなったように見えた。
「大げさ」
「よく言われる」
「たぶん本当に大げさ」
「でも本気」
瞬は頭を下げた。
「お願いします。俺たちの映画を撮ってください」
仁晃も静かに頭を下げた。
「お願いします」
ライカはしばらく何も言わなかった。
時計の秒針が、やけにゆっくり進む。
やがて、ライカは小さく息を吐いた。
「今日は、返事しない」
瞬は顔を上げた。
「また?」
「また」
「これ、一回目だぞ」
「何の?」
「三顧の礼」
「三国志?」
ライカは少しだけ目を丸くした。
仁晃が横で小さくため息をついた。
「瞬が勝手に言ってる」
「じゃあ、あと二回来るの?」
「必要なら」
ライカは少し考え、それから脚本を封筒に戻した。
「脚本、借りてもいい?」
「もちろん」
「ちゃんと読む。あと、昨日の非常階段、明日もう一回見たい。時間ある?」
「ある」
瞬は即答した。
「返事はそのあと」
「わかった」
「それと、ひとつ条件」
「何?」
「私が撮るなら、ミニDVだけじゃなくて、私の一眼の動画も試したい。画質が違うから、どっちが合うか見たい」
「もちろん」
「あと、撮影中に私が『今の光がいい』って言ったら、予定変えてもいい?」
「いい」
「即答しすぎ」
「ニコ、いいよな?」
仁晃は少し考えてから頷いた。
「映画は現実に合わせるものでもあるから」
「脚本家が言うなら大丈夫」
ライカは二人を見て、少しだけ笑った。
「変なチーム」
「まだチームじゃない?」
「まだ」
その言葉は、昨日より少しだけ柔らかかった。
翌日の放課後。
瞬と仁晃は、非常階段でライカを待っていた。
空は昨日よりも雲が多かった。夕方の光は弱く、風も少し冷たい。
「来るかな」
瞬が言うと、仁晃は脚本に目を落としたまま答えた。
「来るって言ったなら来るでしょ」
「返事、今日かな」
「たぶん」
「断られたら?」
「二回目に行くんでしょ」
「三顧の礼だからな」
「相手の迷惑にならない範囲でね」
階段の下から足音が聞こえた。
ライカだった。
首から一眼レフを下げ、片手に小さな三脚を持っている。もう片方の手には、昨日渡した脚本の封筒があった。
「ごめん、待った?」
「全然」
「十分前からそわそわしてた」
「ニコ」
「事実だから」
ライカは少し笑い、非常階段を見上げた。
「昨日の脚本、読んだ」
瞬は背筋を伸ばした。
「どうだった?」
「未完成」
「それはそう」
「でも、撮りたい場面はあった」
ライカは封筒から脚本を取り出し、あるページを開いた。
```
青年は階段に座る。
屋上から歌が聞こえる。
青年は目を閉じる。
```
「ここ」
ライカは指で示した。
「声だけがあって、姿が見えないの、いいと思う。映像なのに、見せない時間があるのが面白い」
仁晃の目が少しだけ大きくなった。
「ありがとう」
「ただ、撮るなら音が大事。歌が下手だと成立しない」
「主演女優、まだいない」
「そこも未定なんだ」
「未定が多い映画です」
瞬が言うと、ライカは呆れたように笑った。
「じゃあ、カメラマンも未定のままだと困るね」
瞬は言葉を失った。
ライカは一眼レフを構え、非常階段の上に向けた。
「やるよ」
風が吹いた。
瞬は一瞬、聞き間違えたのかと思った。
「え?」
「カメラ。やる」
「本当に?」
「うん。ただし、私も初心者。失敗したら一緒に考える。それでいいなら」
「いい」
「あと、完成させること」
ライカはカメラを下ろし、瞬を見た。
「途中でやめるなら、私は撮らない」
瞬は祖父の言葉を思い出した。
下手でもいいから、最後まで撮れ。
「完成させる」
瞬は言った。
「絶対に」
仁晃も頷いた。
「完成させよう」
ライカは少しだけ満足そうに頷き、脚本の表紙に視線を落とした。
「じゃあ、よろしく。監督」
監督。
その呼び方に、瞬の胸が強く鳴った。
まだ何も撮れていない。
主演もいない。
屋上の許可もない。
脚本も最後までできていない。
それでも今、確かに一人増えた。
瞬は右手を差し出した。
「よろしく。カメラマン」
ライカは少し迷ってから、その手を握った。
小さな手だった。
でも、しっかりと力があった。
仁晃が横から言った。
「これで、役割表を更新できる」
「そこ?」
「大事」
仁晃はクリップボードの紙に、丁寧に文字を書き込んだ。
```
監督:黒澤瞬
脚本:小津仁晃
カメラ:北野ライカ
録音:小津仁晃
主演男優:未定
主演女優:未定
```
瞬はその表を見た。
未定はまだ多い。
でも、空白は確実に減っていた。
「じゃあ、最初の仕事」
ライカが言った。
「何?」
「ここでテスト撮影する。黒澤くん、階段に座って」
「俺?」
「青年役の候補なんでしょ」
「まだ未定」
「未定なら試す」
ライカは三脚を立て、一眼レフをセットした。
仁晃は脚本をめくりながら、場面を確認する。
「青年は階段に座る。屋上から歌が聞こえる。青年は目を閉じる」
「歌は?」
瞬が聞くと、ライカと仁晃が同時に黙った。
まだ、歌う少女はいない。
非常階段の上には、ただ夕方の空があるだけだった。
仁晃が小さく言った。
「仮で、鼻歌でも」
「誰が?」
「瞬」
「俺が?」
「主演男優候補で主演女優候補」
「やだよ」
ライカがカメラ越しに言った。
「じゃあ、無音で撮る。あとで歌を入れた時のために」
瞬は階段に座った。
鉄の段差は少し冷たかった。
ライカがファインダーを覗く。
「少し右。いや、戻って。顔を上げすぎないで。聞こえてくるけど、まだ信じてない感じ」
「難しいこと言うな」
「映画だから」
その言葉に、瞬は笑いそうになった。
映画だから。
昨日まで遠かったその言葉が、少しだけ自分たちのものになっている。
「回すよ」
ライカが言った。
瞬は息を止めた。
「三、二、一」
その瞬間、非常階段の空気が変わった。
ただ座っているだけなのに、見られている。
撮られている。
時間が、カメラの中に吸い込まれていく。
「アクション」
ライカの声が響いた。
瞬は、聞こえない歌に耳を澄ませた。
まだ存在しない少女の声を、そこにあるものとして想像した。
屋上。
風。
歌。
そして、それを見上げる青年。
数秒後、ライカが言った。
「カット」
短い沈黙。
それから、仁晃がぽつりと言った。
「今の、少しよかった」
「本当か?」
「少し」
「少しでもいい」
ライカはカメラの画面を確認している。
瞬は階段から立ち上がり、彼女の横に回った。
画面の中には、夕方の非常階段に座る自分がいた。
目を閉じ、顔を少しだけ上げている。
音はない。
歌もない。
それでも、何かを聞いているように見えた。
「映画っぽい」
瞬が言うと、仁晃が即座に返した。
「百一回目」
ライカが小さく笑った。
「でも、わかる」
瞬は画面を見つめた。
そこには、まだ完成にはほど遠い、数秒の映像があるだけだった。
けれど、それは確かに、自分たちが初めて撮った映画の断片だった。
未定だらけの役割表に、カメラマンの名前が入った日。
映画はようやく、文字だけではなく、光と影になり始めていた。




