第四話 ロケハン
映画は、場所から始まる。
そう言ったのは、小津仁晃だった。
翌日の放課後、黒澤瞬は仁晃と並んで、校舎の廊下を歩いていた。仁晃の手には、書きかけの脚本が挟まれたクリップボード。瞬の肩には、祖父から譲り受けたミニDVカメラのバッグがかかっている。
「ロケハンって、つまり場所探しだよな」
「そう。ロケーション・ハンティング」
「なんか急に本格的だな」
「本格的な言葉を使うと、本格的なことをしている気分になれる」
「大事だ」
「気分は大事」
二人はまず、屋上へ続く階段に向かった。
脚本の最初の場面。
青年が歌声を聞く場所。
昨日までただの階段だったそこは、今日は少し違って見えた。白い壁。灰色の床。踊り場の窓から斜めに差し込む夕方の光。上へ続く階段の先には、鍵のかかった屋上の扉がある。
瞬はカメラを取り出し、液晶画面を開いた。
画面の中に、階段が映る。
「……狭いな」
「実際狭い」
「でも、なんかいい」
「光はいいね」
仁晃は踊り場に立ち、窓の方を見た。
「青年がここで立ち止まる。上から歌が聞こえる。顔を上げる」
瞬はカメラを構えた。
「ニコ、そこ立って」
「僕?」
「仮の青年」
「脚本家を雑に使わないで」
文句を言いながらも、仁晃は階段の途中に立った。
瞬は液晶画面越しに仁晃を見る。
階段。
夕方の光。
上を見上げる細い横顔。
ただそれだけなのに、瞬の胸が少し鳴った。
「映画っぽい」
「それ、今日何回言うの」
「たぶん百回」
「語彙を増やして」
仁晃は階段を下りて、クリップボードにメモをした。
```
階段:光は良い。音が響く。
問題:屋上の許可。
```
その文字を見て、瞬は屋上の扉を見上げた。
扉には、昨日と同じように「立入禁止」の札が下がっている。ドアノブを回してみたが、当然動かない。
「鍵、職員室にあるよな」
「あるだろうね」
「借りられるかな」
「理由による」
「映画撮りたいです」
「たぶん変な顔をされる」
「慣れてる」
「そこは強い」
瞬は扉に手を置いた。
この向こうに、屋上がある。
まだ見ていないのに、もう何度も頭の中では見ていた。風に揺れる髪。フェンス。夕焼け。歌う少女。
でも、現実の扉は冷たくて、固く閉ざされている。
「屋上が使えなかったら?」
瞬が聞くと、仁晃は少し考えた。
「脚本を変える」
「え」
「映画は現実に合わせるものでもあるから」
「屋上の歌なのに?」
「屋上じゃない歌になるかもしれない」
「嫌だな」
「じゃあ、使えるように動くしかない」
仁晃はあっさり言った。
瞬は頷いた。
やることがまたひとつ増えた。
でも、不思議と嫌ではなかった。
二人は校舎の中を歩き回った。
空き教室。
廊下。
中庭。
体育館裏。
図書室前。
階段の踊り場。
瞬は気になる場所があるたびにカメラを向けた。映像はざらつき、色も少し眠い。それでも、液晶画面を通すと見慣れた学校が別の場所みたいに見えた。
「ここ、青年が走るシーンに使えないか」
「どこへ走るの?」
「屋上」
「ラスト未定なのに走らせるんだ」
「走らせたい」
「気持ちはわかる」
仁晃はそう言って、またメモをした。
脚本はまだ途中だった。
それでも、場所を見ていると場面が増えていく。ここで立ち止まる。ここで振り返る。ここで迷う。ここで走る。
映画を作るというのは、頭の中の景色と現実の景色を、少しずつ結びつけていくことなのかもしれない。
そう思い始めたころ、二人は写真部の部室を訪ねた。
文化部棟の二階、廊下の一番奥。
扉の上には、黄ばんだ紙で「写真部」と書かれていた。隣には、去年の文化祭で展示したらしい写真が何枚か貼られている。風景、猫、校庭、夕焼け。どれも悪くはなかったが、どこか古い。
瞬は扉をノックした。
返事はない。
もう一度ノックする。
やっぱり返事はない。
「留守?」
「たぶん」
仁晃が扉に貼られた活動予定表を見た。
「活動日、月・水・金って書いてある」
「今日、木曜だ」
「解散」
「早い」
瞬は肩を落とした。
「カメラマン、どうするかな」
「明日また来ればいい」
「でも今日、何か進めたい」
「焦りすぎ」
「焦るだろ。映画って、やること多いんだから」
「昨日それを知った人の台詞とは思えない」
二人が廊下を戻ろうとした時だった。
カシャ、と小さな音がした。
瞬は足を止めた。
「今、シャッター音しなかった?」
「した」
もう一度、カシャ。
音は階段の方から聞こえた。
二人は顔を見合わせ、そちらへ向かった。
文化部棟の非常階段。
夕方の光が、鉄製の手すりに細く反射している。その踊り場に、小柄な女子生徒がしゃがみ込んでいた。
黒髪を高い位置でポニーテールにしている。制服の袖を少しだけまくり、首から一眼レフカメラを下げていた。彼女は階段の手すり越しに、校庭の方へレンズを向けている。
カシャ。
彼女はシャッターを切った。
瞬は思わず声をかけた。
「あの」
「動かないで」
女子生徒は振り向きもせずに言った。
瞬は固まった。
「え?」
「そこ、逆光でちょうどいいから。三秒だけ」
「俺?」
「あなたの影」
言われるまま、瞬はその場に立った。
女子生徒はカメラを構え直し、二度シャッターを切った。
カシャ。カシャ。
それから、ようやく顔を上げた。
「ありがとう。もう動いていい」
「……どうも」
瞬は何に礼を言われたのかわからないまま、曖昧に返した。
女子生徒は撮った写真を液晶画面で確認している。小柄なのに、カメラを持つ手つきはやけに慣れていた。
仁晃が小さく言った。
「北野さん?」
女子生徒が顔を上げた。
「そうだけど」
「北野ライカさんだよね。写真部の」
「写真部ってほど活動してないけど」
彼女は肩をすくめた。
北野ライカ。
瞬はその名前に聞き覚えがあった。同じ学年だ。たしか、入学式の時からカメラを持っていた女子。遠足でも体育祭でも、誰かの写真を撮っていた気がする。
「俺、黒澤瞬」
「知ってる」
「知ってるの?」
「背が高いから、体育祭で何枚か撮った」
「俺、撮られてたのか」
「走ってるところ。顔は変だった」
「消してくれ」
「いい写真だったから嫌」
ライカは淡々と言った。
瞬は返す言葉に困った。
仁晃が一歩前に出る。
「僕は小津仁晃」
「知ってる。本読んでる人」
「その認識なんだ」
「だいたい本読んでるでしょ」
「まあ」
ライカは二人を交互に見た。
「で、何? 写真部に用事?」
「実は、カメラマンを探してて」
瞬が言うと、ライカの目が少しだけ動いた。
「何の?」
「映画」
「映画?」
「自主制作映画」
ライカはしばらく黙った。
それから、瞬の肩にかかったカメラバッグを見た。
「そのバッグ、何」
「ミニDVカメラ」
「見ていい?」
「もちろん」
瞬はバッグからカメラを取り出した。
ライカはそれを受け取ると、急に表情を変えた。さっきまでの淡々とした顔ではなく、何か珍しい鉱石でも見つけたみたいに目を近づける。
「古い」
「じいちゃんの」
「動くの?」
「たぶん」
「たぶんで映画撮るの?」
「そこは、まあ」
「無計画」
「よく言われる」
ライカは液晶画面を開き、レンズを覗き、ボタンの配置を確認した。
「いいね」
「いいの?」
「今どきこれで撮るの、変でいい」
「褒めてる?」
「褒めてる」
ライカはカメラを瞬に返した。
「でも、映像なら私じゃなくてもいいんじゃない。スマホの方が綺麗に撮れるし」
「綺麗に撮れる人じゃなくて、ちゃんと見てくれる人がほしい」
瞬は自分で言ってから、少し驚いた。
そんなことを考えていたわけではない。
でも、さっきライカが夕方の光と自分の影を見ていたのを思い出した。瞬なら通り過ぎていたものを、彼女は立ち止まって撮っていた。
仁晃も頷く。
「僕たちは、映像の見え方がまだわからないから」
「私も映像は詳しくないよ」
「写真は撮れるだろ」
「写真と映像は違う」
ライカは即答した。
「写真は一瞬を切り取る。映像は時間が続く。たぶん、全然違う」
その言葉に、瞬は少しだけ息を止めた。
一瞬を切り取る。
自分の名前みたいだと思った。
「でも、興味はある」
ライカは自分の一眼レフを持ち上げた。
「このカメラ、動画も撮れるから。使ったことはほとんどないけど」
「じゃあ」
「やるとは言ってない」
瞬が身を乗り出す前に、ライカは釘を刺した。
「話だけ聞く」
「聞いてくれるのか」
「変だから」
「変だから?」
「うん。高校三年のこの時期に、古いミニDV持って映画撮りたいって言ってる人、変でしょ」
「否定はできない」
「でも、変なものはちょっと気になる」
ライカは非常階段の手すりにもたれた。
「どんな映画?」
仁晃がクリップボードを開いた。
「仮題は『屋上の歌』。屋上で歌う少女と、それを見つめる青年の短編」
「屋上、使えるの?」
ライカの第一声はそれだった。
瞬と仁晃は黙った。
「まだ」
「だと思った」
ライカは空を見上げた。
「屋上が無理なら、屋上に見える場所を探せば?」
「屋上に見える場所?」
「例えば、ここの非常階段。上から撮れば空が抜けるし、フェンスもある。画角次第で屋上っぽく見えるかも」
ライカは階段を数段上がり、手すり越しにカメラを構えた。
「黒澤くん、そこ立って」
「また?」
「青年役で」
瞬は言われた通り、踊り場に立った。
「小津くん、少し後ろ。影が入る」
「僕も?」
「脚本家も影くらい働いて」
「雑用が増えた」
ライカはファインダーを覗いた。
その横顔は真剣だった。
「ここからだと、黒澤くんの奥に空が入る。下を切れば、校舎の古さも目立たない。夕方なら悪くない」
カシャ。
シャッター音が響いた。
ライカは画面を確認し、二人に見せた。
瞬は息をのんだ。
写真の中の自分は、非常階段に立っているだけだった。
でも、背景には淡い夕空が広がり、手すりの影が斜めに落ちていた。普段の学校ではなく、どこか知らない物語の場所みたいに見えた。
「……映画っぽい」
「百回目?」
仁晃が言った。
瞬は画面から目を離せなかった。
「すごいな、北野」
「写真だから。映像だとまた違う」
「でも、すごい」
ライカは少しだけ視線を外した。
「大げさ」
「今日、ニコにも同じこと言われた」
「じゃあ、黒澤くんが大げさなんだと思う」
「かもしれない」
瞬は笑った。
でも、その笑いはすぐに消えた。
目の前に、ほしい人がいる。
そう思った。
脚本を書ける仁晃を見つけた時と同じだ。自分一人では見えないものを、この人は見ている。
「北野」
「何」
「俺たちの映画、カメラやってほしい」
言葉にすると、非常階段の空気が少し止まった気がした。
ライカは瞬を見た。
その目は、茶化していなかった。
「簡単に言うね」
「簡単じゃないのはわかってる」
「映像、ほとんど撮ったことない」
「一緒に覚える」
「失敗するかも」
「たぶん俺たち全員する」
「時間も取られる」
「そこは、お願いするしかない」
瞬は頭を下げた。
「お願いします。俺たちの映画を撮ってください」
仁晃も隣で頭を下げた。
ライカは黙っていた。
遠くで、吹奏楽部の音が聞こえる。
夕方の風が、非常階段を抜けていった。
「……今日は返事しない」
やがて、ライカは言った。
瞬は顔を上げた。
「だめ?」
「だめとも言ってない」
「じゃあ」
「脚本、読ませて」
仁晃が少し驚いた顔をした。
「まだ途中だけど」
「途中でいい。何を撮るのかわからないと決められない」
ライカはカメラを首にかけ直した。
「あと、明日もう一回ロケハンするなら呼んで。場所を見るのは嫌いじゃない」
「来てくれるのか」
「見るだけ」
「撮ってくれる?」
「見るだけ」
「でもカメラ持ってくるよな」
「それは持ってる」
ライカはそう言って、階段を下りていった。
去り際、ふと振り返る。
「黒澤くん」
「何?」
「さっきの写真、あとで送る」
「ありがとう」
「影の形はよかった。顔は見えてないけど」
「それは褒めてる?」
「褒めてる」
今度こそ、ライカは階段を下りていった。
足音が遠ざかる。
瞬はしばらくその場に立っていた。
仁晃が隣でクリップボードを閉じる。
「変な人だったね」
「俺たちが言えるか?」
「言えない」
二人は顔を見合わせて笑った。
校舎の窓の外では、空が夕焼けに染まり始めていた。
屋上はまだ使えない。
主演もいない。
脚本も未完成。
カメラマンも、まだ仲間になったわけではない。
それでも瞬には、今日の学校が昨日より少しだけ広くなったように見えた。
映画の場所を探して歩いたからだろうか。
それとも、映画を一緒に見てくれそうな目に出会ったからだろうか。
スマホが震えた。
ライカから写真が送られてきていた。
夕空を背に、非常階段に立つ瞬の影。
顔は見えない。
けれど、その影は確かに、どこかへ向かおうとしているように見えた。
【キャラクター紹介】
北野ライカ(きたの・らいか)
本作のカメラマン。
低身長で、黒髪をいつもポニーテールにしている女子生徒。普段から一眼レフカメラを持ち歩いており、風景や友人のポートレート、喫茶店で注文した料理など、気になったものをよく撮っている。
写真を撮ることは好きだが、映像制作の経験はほとんどない。ただ、自分の一眼レフに動画機能があることは前から気になっていた。
瞬たちの自主制作映画に誘われたことで、初めて本格的に映像を撮ることになる。
静かで淡々としているが、光や構図へのこだわりは強い。見慣れた学校の風景も、彼女のカメラを通すと少し違って見える。




