第三話 最初の仲間
翌日の昼休み、黒澤瞬は焼きそばパンを買い損ねた。
購買の前には、いつも通り腹を空かせた高校生たちの列ができていた。瞬はその最後尾に並んでいたが、頭の中はパンどころではなかった。
映画を撮る。
脚本を書く。
仲間を集める。
昨日まで自分の中になかった言葉が、今日はずっと頭の中を回っている。
そのせいで、列が進んでいることに気づかなかった。
「黒澤、買わないならどいて」
後ろの男子に言われて、瞬は慌てて顔を上げた。
「あ、ごめん」
カウンターを見ると、焼きそばパンはもうなかった。
残っていたのは、メロンパンと牛乳だけだった。
「……青春、甘いな」
「何言ってんの?」
購買のおばちゃんに怪訝な顔をされ、瞬はメロンパンと牛乳を買って逃げるようにその場を離れた。
校舎裏のベンチには、すでに小津仁晃が座っていた。
いつものように文庫本を読んでいる。けれど今日は、本の上に別のノートが重なっていた。
昨日、瞬が二行だけ書いたノートだった。
「ニコ!」
「声が大きい」
「書けた?」
「まず座って」
「書けたんだな」
「座って」
瞬はベンチに腰を下ろした。
仁晃は少しだけ周囲を確認してから、ノートを瞬に渡した。
「まだ脚本じゃない。メモ」
そう言ったわりに、ノートにはびっしり文字が詰まっていた。
瞬はページをめくった。
```
仮題『屋上の歌』
登場人物
青年:高校三年生。進路未定。何かを始めたいが、何も始められない。
少女:高校三年生。歌が好き。人前で歌うのは苦手。
青年は三日前、偶然屋上から聞こえる歌を耳にする。
それ以来、放課後になると屋上へ続く階段に来てしまう。
少女は屋上で一人歌っている。
誰にも聞かせるつもりはない。
```
瞬は黙った。
昨日、自分の頭の中にあったのは、屋上と少女と歌だけだった。
それが、ノートの中ではもう人間になり始めていた。
「……これ、ニコが考えたの?」
「瞬の言った絵から広げただけ」
「すごいな」
「まだ全然」
「いや、すごい」
瞬は素直に言った。
仁晃は少しだけ目を逸らした。
「大げさ」
「大げさじゃない。俺が書いたの、女の子が歌ってる、男が見る、だぞ」
「それはそれで潔かった」
「褒めてないだろ」
「少しは褒めてる」
仁晃は牛乳のパックを開けた。
「短編にするなら、話はシンプルでいいと思う。青年が少女の歌を聞いて、声をかけようとして、でもかけられない。最後に一言だけ言う。それだけ」
「一言って?」
「まだ決まってない」
「そこ一番大事じゃないか」
「だから最後に考える」
仁晃は淡々と言った。
瞬はノートをめくる。
次のページには、場面の順番らしきものが書いてあった。
```
1. 青年、階段で歌を聞く
2. 少女、屋上で歌う
3. 青年、声をかけ損ねる
4. 翌日も聞きに来る
5. 少女に見つかる
6. 短い会話
7. 文化祭前日、少女が「明日で最後」と言う
8. 文化祭当日、青年が屋上へ走る
9. ラスト未定
```
「映画っぽい」
「映画っぽくなるように並べたから」
「ラスト未定なのがいいな」
「よくない」
「いや、今の俺たちっぽい」
瞬が言うと、仁晃は少しだけ黙った。
「……それは、少し思った」
「だろ?」
「でも、物語としては決めないといけない」
「わかってる」
瞬はノートを閉じた。
胸の中がざわざわしていた。
嬉しい。
たぶん、これは嬉しいのだと思った。
自分が昨日ぽつりと言っただけのものが、誰かの手で形になっている。自分一人では絶対にここまで来られなかった。
映画は作るもの。
その意味が、昨日より少しだけわかった気がした。
「ニコ」
「何?」
「脚本、書いてくれない?」
仁晃の手が止まった。
「考えるだけって言った」
「でも、もう書いてる」
「これはメモ」
「脚本も書けるだろ」
「書いたことない」
「小説書いてるって言ってたじゃん」
「脚本と小説は違う」
「でも、俺より書ける」
「それはそう」
「そこは否定しないのか」
「事実だから」
仁晃は牛乳をひと口飲んだ。
それから、低い声で言った。
「僕が書いて、変だったらどうするの」
「直す」
「面白くなかったら?」
「撮ってみる」
「撮ってつまらなかったら?」
「また撮る」
瞬は深く考えずに答えた。
仁晃は目を細めた。
「簡単に言うね」
「簡単じゃないのはわかってる。でも、何もないよりいい」
それは、瞬の本音だった。
完成するかはわからない。
面白くなるかもわからない。
でも、今ここで「無理だ」と言ったら、本当に何も残らない。
仁晃はノートの表紙を指でなぞった。
「僕、自分が書いたものを人に見せたことないんだよ」
「うん」
「だから、怖い」
その言葉は小さかった。
瞬は少し驚いた。
仁晃は何でも知っているような顔をする。授業でも、読書でも、誰かの相談でも、だいたい落ち着いて正しいことを言う。だから、怖いという言葉が似合わない気がしていた。
でも、似合わないのではなく、見せていなかっただけなのだ。
「俺も怖い」
瞬は言った。
「何が」
「映画撮りたいとか言って、何もできなかったらどうしようって思ってる」
「瞬でも?」
「俺でも」
「意外」
「俺を何だと思ってる」
「勢いで壁を壊す人」
「壊さない。たぶん」
仁晃が小さく笑った。
その笑いで、二人の間の空気が少しだけほどけた。
「じゃあ、こうしよう」
仁晃はノートを開いた。
「脚本は僕が書く。でも、瞬も一緒に考える。これは瞬の映画だから」
「わかった」
「勝手に僕の話にしない」
「わかった」
「あと、完成させる」
その言葉に、瞬は祖父の顔を思い出した。
下手でもいいから、最後まで撮れ。
「完成させる」
瞬は言った。
仁晃は頷いた。
「じゃあ、必要な人を考える」
「役者?」
「それも。まず最低限、監督、脚本、カメラ、録音、主演二人」
「監督は俺」
「脚本は僕」
仁晃がそう言った瞬間、瞬は思わず笑った。
「今、言ったな」
「何を」
「脚本は僕って」
「……言ったね」
「録音は?」
「僕がやる。マイクを持つくらいならできる」
「脚本家兼音響」
「雑用とも言う」
「かっこいい」
「かっこよくはない」
仁晃はノートに役割を書いていく。
```
監督:黒澤瞬
脚本:小津仁晃
カメラ:未定
録音:小津仁晃
主演男優:未定
主演女優:未定
```
「未定多いな」
「映画は未定から始まる」
「名言っぽい」
「今作った」
瞬はその表を見つめた。
そこに自分の名前と仁晃の名前が並んでいる。
それだけで、少し本物みたいに見えた。
「カメラマンって、誰に頼めばいいんだ?」
「写真部とか」
「うちの学校、写真部あったっけ」
「ある。たしか部員二人」
「少ない」
「文化部はだいたいそんなもの」
「演劇部は?」
「主演を探すなら行くことになると思う。ただ、今は大会前じゃなかったかな」
「大会?」
「高校演劇の地区大会。たぶん忙しい」
「映画に出てくださいって言ったら?」
「断られる可能性が高い」
「最初から厳しいな」
「期待値を調整してるだけ」
瞬はベンチの背もたれに体を預けた。
空はよく晴れている。
校舎の屋上は、今日も遠い。
「仲間集めか」
「そう。脚本だけあっても撮れない」
「どうやって集める?」
「まず、知り合いに声をかける。次に部活。最後に掲示」
「掲示って、ポスター?」
「自主制作映画、出演者募集、みたいな」
「恥ずかしいな」
「映画を撮りたいって言ってる時点で、だいぶ恥ずかしいよ」
「たしかに」
瞬は笑った。
その日の放課後、二人は図書室に向かった。
仁晃が「脚本の本を借りたい」と言ったからだ。
図書室は放課後でも静かだった。窓際の席では受験勉強をしている三年生が何人かいて、ページをめくる音とシャーペンの音だけが聞こえていた。
仁晃は迷いなく本棚の奥へ進んだ。
瞬はその後ろについていく。
「ニコ、図書室の地図でも頭に入ってるの?」
「だいたい」
「住んでる?」
「住んでない」
仁晃は映画関係の棚から、脚本術の本と映画制作の入門書を抜き出した。
瞬も適当に『日本映画の名作』という本を手に取る。
目次に並んだ名前を見て、瞬は思わず鼻で笑った。
「なあ、ニコ」
「何」
「俺たち、名前だけなら巨匠になれるかも」
瞬は本を開いて見せた。そこには『黒澤』や『小津』といった名前が並んでいる。
「名字だけならね。中身が伴ってない」
二人は顔を見合わせた。
少しだけ、おかしかった。
まるで最初から映画を撮るために名前を持っていたみたいだった。
もちろん、そんなことはない。
ただの偶然だ。
でも、その偶然を信じたくなるくらいには、瞬は浮かれていた。
「なあ、ニコ」
「何?」
「俺たち、本当に映画撮るんだな」
「まだ撮ってない」
「でも、撮るんだろ」
仁晃は借りる本を抱え直した。
「撮るよ」
その返事は静かだった。
けれど、瞬には十分だった。
図書室を出ると、廊下は夕方の色に染まっていた。
窓の外では、部活へ向かう生徒たちが走っている。誰かの笑い声、吹奏楽部のチューニング、運動部の掛け声。
その全部が、いつもより少しだけ映画の中の音みたいに聞こえた。
「まずはカメラマンだな」
瞬が言った。
「うん。映像を任せられる人がいると大きい」
「写真部、行ってみるか」
「今日はもう閉まってると思う。明日でいい」
「明日か」
瞬は頷いた。
明日やることがある。
それだけで、不思議と足取りが軽かった。
校門へ向かう途中、仁晃がふいに足を止めた。
「瞬」
「何?」
「タイトル、仮でいい?」
「映画の?」
「うん」
「何?」
仁晃は少し迷ってから言った。
「『屋上の歌』」
瞬はその言葉を口の中で繰り返した。
屋上の歌。
まだ見ぬ少女。
まだ聞こえない声。
まだ決まっていないラスト。
「いいと思う」
「仮だけど」
「仮でもいい」
瞬は笑った。
「俺たちの映画っぽい」
仁晃も、ほんの少し笑った。
その夜、瞬のスマホに仁晃からメッセージが届いた。
添付されていたのは、脚本の最初の一ページだった。
```
『屋上の歌』
脚本 小津仁晃
○校舎・階段・放課後
誰もいない階段に、かすかな歌声が響いている。
青年が足を止める。
青年は、上を見る。
歌声は屋上から聞こえている。
```
瞬はベッドの上で、その画面を何度も見た。
脚本 小津仁晃。
その文字が、妙にまぶしかった。
瞬は返信を打った。
「最高」
すぐに既読がついた。
けれど、返事はなかなか来なかった。
数分後、短いメッセージが届いた。
「まだ一ページ」
瞬は笑った。
そして、もう一度返信した。
「でも、始まった」
今度は、返事が早かった。
「うん」
瞬はスマホを伏せて、机の下のカメラバッグを見た。
古いミニDVカメラ。
未使用のテープ。
脚本の一ページ。
そして、最初の仲間。
まだ映画は一カットも撮れていない。
けれど、瞬にはもう、何もないとは思えなかった。




