第二話 脚本づくり
翌朝、黒澤瞬はいつもより早く目を覚ました。
目覚ましが鳴る前だった。
カーテンの隙間から差し込む光が、部屋の床に細い線を作っている。瞬はしばらく天井を見つめていた。昨日、祖父の家から持ち帰った黒いカメラバッグは、机の下に置いてある。
瞬は布団から起き上がり、バッグを開けた。
ミニDVカメラは、昨夜と同じようにそこにあった。古くて、少し傷があり、今にも昔の時間を吐き出しそうな顔をしている。
撮ってみたい。
昨日は、たしかにそう思った。
けれど、朝になってみると、次の問題が現実として目の前にあった。
「……で、何を?」
瞬はカメラを前にしてつぶやいた。
映画を撮る。
言葉にすると簡単だった。
けれど、何を撮れば映画になるのか、誰に頼めばいいのか、そもそも映画とは何人で作るものなのか。何もわからない。
スマホで検索してみた。
自主制作映画 作り方。
検索結果はたくさん出てきた。脚本、絵コンテ、ロケハン、キャスティング、撮影、録音、編集、MA、カラーグレーディング。
知らない言葉が多すぎた。
瞬は三分で画面を閉じた。
これは一人で考えるものではない。
そう判断するまでに、たいした時間はかからなかった。
学校へ向かう途中、瞬は幼なじみの小津仁晃を捕まえた。
校門へ続く坂道の途中、仁晃は文庫本を片手に歩いていた。薄い色の髪が朝の光を受けて、少しだけ透けて見える。背は瞬より頭ひとつ分低く、線も細い。遠目には女子に間違われることもある顔立ちだったが、本人はそれを気にしているのかいないのか、いつも淡々としていた。
「ニコ!」
瞬が声をかけると、仁晃は本から顔を上げた。
「朝から声が大きい」
「映画を撮りたい」
「おはようの次がそれ?」
「映画を撮りたい」
「二回言えば説明になると思ってる?」
仁晃は本にしおりを挟み、閉じた。
瞬は肩で息をしながら、昨日のことを一気に話した。祖父の家で見つけたミニDVカメラ。昔の自主映画。銀色のヒーロー。祖父の言葉。
仁晃は黙って聞いていた。
ふざけて笑うことも、茶化すこともしなかった。そこが、瞬にとってはありがたかった。
「それで?」
「それで、俺も撮りたい」
「何を?」
あっさりと聞かれて、瞬は口を開けたまま止まった。
「……映画を」
「だから、どんな映画を?」
「えっと」
坂道の脇を、自転車通学の生徒が何人か追い越していく。女子の笑い声が遠ざかっていった。
瞬は眉間に皺を寄せた。
「なんか、いい感じのやつ」
「終わった」
「終わってない」
「今のでだいぶ終わってる」
仁晃はため息をついたが、目は少しだけ面白がっているようだった。
「映画を撮るなら、最初に決めることがいくつかある」
「おお」
「まず、何を撮りたいのか。次に、どれくらいの長さにするのか。誰に見せるのか。いつまでに完成させるのか。使える場所、使える時間、出られる人、使える機材。それから脚本」
「待って」
「待たない」
「多い」
「映画は多いんだよ」
仁晃は歩きながら、指を折っていった。
「脚本がないと撮れない。役者がいないと芝居ができない。カメラがあっても音が録れないと台詞が聞こえない。場所があっても許可がないと怒られる。撮った映像は編集しないと見られない。音楽を勝手に使うと問題になる。上映するなら締め切りもいる」
「……俺、カメラを持ったら撮れると思ってた」
「写真なら撮れる。映画は作る」
その言葉に、瞬は少しだけ黙った。
作る。
昨日見た祖父の映画も、ただ撮っただけではなかったのだろう。あの段ボールの装甲も、アルミホイルの剣も、変な台詞も、きっと誰かが考えて、誰かが作って、誰かが笑いながら直したものだった。
「でも、無理って話じゃないよ」
仁晃が言った。
瞬は顔を上げた。
「やることが多いだけ。順番にやればいい。最初は短くていい。五分とか、十分とか」
「五分で映画になるのか?」
「なる。むしろ最初から長編を撮ろうとする方が危ない。完成しない」
瞬は祖父の言葉を思い出した。
下手でもいいから、最後まで撮れ。
「完成させるのが大事って、じいちゃんも言ってた」
「いいこと言うね」
「だろ」
「瞬より信用できる」
「おい」
仁晃は小さく笑った。
教室に着いてからも、瞬の頭の中は映画のことでいっぱいだった。
数学の授業中、ノートの端に「映画」と書いた。その下に「脚本」「役者」「カメラ」「音」「編集」と書いてみる。書いた瞬間、全部が自分に向かって押し寄せてくるようで、瞬はシャーペンを止めた。
昼休み。
瞬と仁晃は、校舎裏の自販機の横にあるベンチに座っていた。購買で買った焼きそばパンをかじりながら、瞬は持ってきたカメラをバッグから出した。
「本当に持ってきたの」
「見せたかった」
「重そう」
「重い」
仁晃はカメラを受け取り、慎重に眺めた。
「ミニDVか。今使うなら逆に味は出るかもね」
「味?」
「古い映像の質感。ノイズとか、色のにじみとか。狙って出すなら面白い」
「なるほど」
瞬はよくわかっていなかったが、頷いた。
「で、瞬」
「うん」
「何を撮りたいの?」
朝と同じ問いだった。
けれど、今度は逃げられない気がした。
瞬は焼きそばパンを袋に戻し、空を見上げた。校舎の向こう側に、屋上のフェンスが見える。普段は立ち入り禁止で、誰かがいるのを見たことはない。
その時だった。
ふっと、頭の中に映像が浮かんだ。
青い空。
校舎の屋上。
フェンス越しに風が吹いている。
そこに、一人の少女が立っている。
少女は歌っている。
誰に聞かせるでもなく、ただ空に向かって歌っている。
少し離れた場所に、青年がいる。
声をかけることもできず、ただ見つめている。
その横顔だけが、妙にはっきりしていた。
「……屋上」
瞬はつぶやいた。
「屋上?」
「屋上で、女の子が歌ってる」
仁晃は黙って瞬を見た。
「それを、男が見てる。声をかけたいんだけど、かけられない。たぶん、毎日見てる。聞いてる。でも言えない」
「何を?」
「わかんない」
「そこ大事だよ」
「わかってる」
瞬は頭をかいた。
「でも、絵は浮かんだんだよ。屋上で歌う少女と、それを見つめる青年」
口に出した瞬間、それは自分の中で少しだけ輪郭を持った。
恥ずかしいような、でも手放したくないような感覚だった。
仁晃はしばらく考え込んでいた。
「悪くないと思う」
「本当か?」
「うん。派手な話じゃないけど、短編には向いてる。場所も学校中心で済むし、役者も少なくできる。問題は屋上が使えるかどうかだけど」
「そこはなんとかする」
「なんとかで済まないこともあるけどね」
仁晃はバッグからノートを取り出した。
表紙の角が少し丸まった、使い込まれたノートだった。瞬はそれを何度か見たことがある。仁晃はよく何かを書いているが、中身は見せてくれない。
「まず、ログライン」
「ろぐ?」
「一行で話を説明するやつ。例えば、“屋上で歌う少女に声をかけられない青年が、文化祭の日に初めて想いを伝える話”とか」
「おお、映画っぽい」
「まだ適当だけど」
仁晃はノートにさらさらと書いていく。
「次に、登場人物。青年。少女。必要なら友人とか先生。でも最初は少ない方がいい」
「青年は俺がやる」
「え?」
「男優が見つからなかったら困るし」
「もう主演する気なの?」
「監督もやる」
「無謀」
「言い方」
「監督兼主演は大変だよ。自分の芝居を見られないから」
「そうなのか」
「そう」
仁晃は呆れたように言ったが、完全に止める感じではなかった。
「まあ、まだ決めなくていい。脚本を書いてから考えよう」
「脚本って、どう書くんだ?」
「柱、ト書き、台詞」
「柱?」
「場所と時間。例えば、屋上、夕方。ト書きは動きや状況。台詞は台詞」
仁晃はノートの端に、簡単な例を書いた。
```
○屋上・夕方
フェンス越しに夕日が差している。
少女が一人、歌っている。
青年は扉の影から、その姿を見つめている。
青年「……また、歌ってる」
```
瞬はそれを見て、少し胸が鳴った。
「これだけで、もう映画っぽい」
「映画っぽく見える形式だからね」
「俺にも書けるかな」
「書いてみれば」
仁晃はシャーペンを瞬に渡した。
「今?」
「今」
「急だな」
「撮りたいんでしょ」
瞬はノートを受け取った。
白いページが目の前に広がる。
そこに何かを書けば、映画が始まる。
そう思った瞬間、手が止まった。
頭の中には、たしかに映像があった。屋上で歌う少女。見つめる青年。風。フェンス。夕焼け。
けれど、それを文字にしようとすると、急に全部が逃げていく。
少女はなぜ歌っているのか。
青年はなぜ声をかけられないのか。
二人は知り合いなのか。
ラストはどうなるのか。
そもそも、何が面白いのか。
瞬はシャーペンを握ったまま、数分黙っていた。
「……書けない」
「うん」
「うんって」
「最初はそうだよ」
「ニコなら書けるのか?」
瞬が聞くと、仁晃は一瞬だけ目を伏せた。
「僕も、すぐには無理」
「でも詳しいじゃん」
「読むのが好きだから」
「書いたことは?」
仁晃の手が、ほんの少し止まった。
その変化に、瞬は気づいた。
「あるの?」
「……少し」
「小説?」
「まあ」
「見せて」
「嫌だ」
即答だった。
「なんで」
「嫌だから」
「賞とか出したことある?」
「ない」
「もったいない」
「読んでもないのにもったいないって言わない」
仁晃は少しだけ顔を背けた。
耳が赤くなっているように見えた。
瞬はその横顔を見て、なぜか笑いそうになった。幼なじみなのに、知らないことがまだある。仁晃が小説を書いていたことも、それを誰にも見せていないことも。
「じゃあ、俺が書く」
瞬はもう一度ノートに向かった。
書いた。
```
○屋上・夕方
女の子が歌っている。
男が見る。
男「うまいな」
女「え?」
```
そこで止まった。
仁晃が横から覗き込む。
「どう?」
「早い」
「才能?」
「終わるのが早い」
「厳しい」
「でも、最初の一行はある」
仁晃はノートを指差した。
「女の子が歌っている。男が見る。これは瞬が撮りたい絵なんでしょ」
「うん」
「だったら、そこから考えればいい」
午後の予鈴が鳴った。
校舎の中へ戻る生徒たちの足音が響く。
瞬はノートを閉じようとして、ふと思った。
「ニコ」
「何?」
「一緒に考えてくれない?」
仁晃は瞬を見た。
「脚本」
「……僕が?」
「うん。俺、たぶん一人だと無理だ」
「たぶんじゃなくて、かなり無理だね」
「そこは濁して」
仁晃は黙った。
自販機の機械音が、二人の間に小さく響いていた。
やがて仁晃は、瞬の手元からノートを取った。
「考えるだけなら」
「書いてくれる?」
「考えるだけ」
「でも書くよな?」
「考えるだけ」
そう言いながら、仁晃はノートを開き、瞬の書いた二行の下に小さく文字を書き足した。
```
青年は、その歌を三日前から知っている。
```
瞬はそれを見た。
たった一行なのに、急に物語が動いた気がした。
「三日前から?」
「毎日聞きに来てるなら、その方がいい」
「なんで声かけないんだ?」
「それを考える」
「少女はなんで歌ってる?」
「それも考える」
「ラストは?」
「一番あと」
仁晃はノートを閉じ、自分のバッグにしまった。
「あ」
「今日は預かる」
「俺の脚本」
「二行しか書いてない」
「俺の二行」
「大事にするよ」
仁晃はそう言って、少しだけ笑った。
その笑い方が、いつもより楽しそうに見えた。
放課後、瞬は一人で屋上へ続く階段の前に立っていた。
当然、扉には鍵がかかっている。立入禁止の札が下がっていた。
瞬はドアノブを回してみた。
動かない。
わかっていたことなのに、少しだけ悔しかった。
階段の踊り場には、夕方の光が斜めに差し込んでいる。窓の外では、グラウンドの運動部が声を出していた。
瞬はポケットからスマホを取り出し、メモアプリを開いた。
そして、昼休みに仁晃が言った言葉を書いた。
映画は撮るものじゃない。作るもの。
その下に、もうひとつ書く。
屋上で歌う少女と、それを見つめる青年。
まだ、何も始まっていない。
脚本もない。役者もいない。屋上も使えない。
それでも、瞬には昨日より少しだけ先が見えていた。
白紙の上に、最初の一行が書かれた。
それだけで、胸の中の空白は、もう完全な空白ではなくなっていた。
【キャラクター紹介】
小津仁晃
黒澤瞬の幼なじみ。愛称はニコ。
普通身長で細身。ショートボブの色素の薄い髪と、中性的な顔立ちから、一見すると美少女のようにも見える青年。
本好きで、いつもどこか落ち着いている。瞬とは対照的に物事を順序立てて考えるタイプで、勢いで走り出す瞬のブレーキ役になることも多い。
実はひそかに小説を書いているが、誰かに見せたことも、賞に応募したこともない。瞬が映画を撮りたいと言い出したことで、脚本づくりに関わることになる。
現場では脚本だけでなく、録音係としてマイクを持ち、撮影記録を管理するスクリプターも担当する。




