第一話 映画づくりのきっかけ
黒澤瞬は、自分の青春が空白のまま終わろうとしていることに、薄々気づいていた。
高校三年の春だった。
教室では進路の話が増えた。誰かは推薦を狙っていて、誰かは専門学校のパンフレットを机に広げ、誰かは部活最後の大会に向けて、妙にまぶしい顔をしていた。
瞬には、そういうものがなかった。
成績は悪くない。運動もそれなりにできる。背も高く、顔立ちも整っている方だと、周りには言われる。けれど、それだけだった。
何かに打ち込んだ記憶がない。
何かを失うほど好きになったものもない。
卒業式の日、自分は何を思い出すのだろう。
そう考えるたび、胸の中にうっすらとした焦げ跡のようなものが残った。
その日、瞬は母に頼まれて、祖父の家の片づけを手伝いに来ていた。
祖父は一人暮らしだった。古い平屋の家は、夏前だというのに畳の匂いと、少し湿った木の匂いがした。庭には伸びかけた雑草が揺れていて、縁側には古いサンダルが一足、いつからそこにあるのかわからない顔で置かれていた。
「瞬、そこの押し入れの下の段、見てくれるか」
居間で新聞をたたみながら、祖父が言った。
「いらないものが出てきたら、まとめておいてくれ」
「はいはい」
瞬は気のない返事をして、押し入れを開けた。
中には、古い座布団、紙袋、布にくるまれた何か、茶色く変色した段ボール箱が詰め込まれていた。埃っぽい。瞬は鼻を鳴らしながら、ひとつずつ引っ張り出していく。
その奥に、黒い鞄があった。
革のような素材はところどころ白く曇っていて、金具には錆が浮いていた。持ち上げると、思ったよりも重い。
「じいちゃん、これ何?」
瞬が振り返ると、祖父は新聞から顔を上げた。
その目が、ほんの少しだけ大きくなった。
「……まだあったのか」
「何が?」
「開けてみろ」
瞬は畳の上に鞄を置き、留め具を外した。
中に入っていたのは、小さなビデオカメラだった。
今どきのスマホやミラーレスとはまるで違う。手のひらに収まるには少し大きく、角ばった銀色のボディに、黒いグリップ。横には小さな液晶画面が折りたたまれていた。
「カメラ?」
「ミニDVだな。テープで録るやつだ」
「テープ?」
「お前らには化石みたいなもんだろう」
祖父は笑った。
瞬はカメラを手に取った。ずしりとした重さがあった。ボタンがいくつも並んでいて、触るだけで機械を持っている感じがする。
鞄の底には、小さなカセットのようなものが何本も入っていた。ラベルには、かすれた字で日付やタイトルが書かれている。
『鋼鉄戦士ブレイバー』
『第3話 廃工場の決戦』
『NG集』
『完成版?』
瞬はラベルを読み上げて、顔をしかめた。
「鋼鉄戦士ブレイバー?」
「読むな読むな」
祖父が珍しく慌てた声を出した。
「じいちゃん、これ何。特撮?」
「若い頃にな。仲間内で映画を撮ってたんだ」
「映画?」
「自主制作映画ってやつだ。まあ、映画と呼べるほど立派なもんじゃないが」
瞬はもう一度カメラを見た。
祖父が映画を撮っていた。
その事実が、妙に想像できなかった。瞬の知っている祖父は、新聞を読み、時代劇を見て、庭の草むしりをする人だった。若い頃があったという当たり前のことを、瞬はどこかで忘れていた。
「見られるの?」
何気なく聞いたつもりだった。
祖父はしばらく黙っていた。
それから、少しだけ気恥ずかしそうに頭をかいた。
「……デッキがまだ動けばな」
居間のテレビの下には、DVDプレイヤーと一緒に、見たことのない古い機械が置かれていた。祖父は棚の奥からケーブルを引っ張り出し、何度か差し替え、リモコンを探し、瞬に「そこ持ってろ」と言った。
十分ほど格闘したあと、テレビ画面にざらついた青い映像が映った。
祖父が一本のテープを入れる。
画面が乱れ、白いノイズが走った。
それから突然、古い商店街が映った。
今よりずっと看板が派手で、道路は狭く、人の服装もどこか違う。画面の端に指が入っている。ピントも甘い。風の音がごうごう鳴って、誰かの笑い声が入っていた。
『いくぞ、三、二、一、アクション!』
若い男の声がした。
次の瞬間、銀色のヘルメットをかぶった男が画面に飛び込んできた。
胸には段ボールで作ったような装甲。腕にはアルミホイルを巻いた剣。背後から、黒い全身タイツの怪人が追いかけてくる。
瞬は思わず吹き出した。
「なにこれ」
「笑うな」
「いや、無理でしょ」
画面の中のヒーローは、商店街の真ん中でポーズを決めた。
『悪の秘密結社ダークネス団! この街の平和は、俺が守る!』
声が裏返っていた。
祖父は咳払いをした。
「若かったんだ」
瞬は笑いながらも、画面から目を離せなかった。
殺陣はぎこちない。怪人は転ぶのが早すぎる。効果音は口で言っている。爆発シーンの代わりに、誰かが画面の前で煙幕花火を焚いていた。カメラは揺れ、台詞は聞き取りづらく、編集のつなぎ目も乱暴だった。
でも、そこには熱があった。
画面の中の若者たちは、本気だった。
本気で走り、本気で叫び、本気で変なポーズを決めていた。失敗して笑い、もう一度やり直し、誰かが「今のよかった!」と叫んでいた。
完成度なんて、高くない。
むしろ稚拙だった。
けれど、その稚拙さの向こう側に、眩しいものがあった。
瞬は、いつの間にか笑うのをやめていた。
テレビの中で、銀色のヒーローが夕暮れの河川敷に立っていた。怪人との最後の戦いを終え、ヘルメットを外す。中から出てきた若い男の顔は、今の祖父に少し似ていた。
いや、祖父だった。
髪は黒く、背筋は伸びていて、目だけが今と同じだった。
『この街は、明日も続いていく』
画面の中の祖父が言った。
『だから俺たちも、明日に向かって走るんだ』
台詞は古くさかった。
けれど、瞬は笑えなかった。
映像が終わると、画面はまた青くなった。
居間に、古い機械の回る音だけが残った。
「ひどいだろう」
祖父が言った。
「うん」
瞬は正直にうなずいた。
「でも、面白かった」
祖父は意外そうに瞬を見た。
「本当に?」
「うん。なんか……変だけど、ずっと見ちゃった」
「そうか」
祖父はテレビを見つめたまま、少し笑った。
「気恥ずかしいがな。それでも、青春の一ページだった」
その言葉だけが、やけにはっきりと瞬の胸に残った。
青春の一ページ。
自分には、そんなものがあるだろうか。
文化祭の写真。修学旅行の集合写真。体育祭の応援席。たぶん、探せば何かはある。けれど、それは自分が本当に残したいものだろうか。
瞬は、畳の上に置かれたミニDVカメラを見た。
小さな機械だった。
古くて、重くて、今ではスマホの方がずっと綺麗に撮れるのかもしれない。
それでも、そのカメラには、さっき見た映像と同じ匂いがした。
馬鹿みたいで、未熟で、けれど本気だった時間。
「じいちゃん」
「なんだ」
「これ、まだ使える?」
祖父は瞬を見た。
瞬自身、その質問に驚いていた。けれど、一度口にしてしまうと、胸の奥で何かが静かに動き始めるのがわかった。
「撮るのか?」
「わかんない」
瞬はカメラを持ち上げた。
「でも、撮ってみたい」
祖父はしばらく黙っていた。
それから、皺の増えた手で鞄の中を探り、未使用らしいテープを一本取り出した。
「なら、持っていけ」
「いいの?」
「どうせ俺が持っていても、もう撮らん」
祖父はテープを瞬に渡した。
「ただし、ひとつだけ約束しろ」
「何?」
「下手でもいいから、最後まで撮れ」
瞬は答えられなかった。
最後まで。
その言葉は、思ったより重かった。
「途中で投げるな。完成させろ。完成したものだけが、あとで笑える」
祖父はそう言って、少し照れたように笑った。
瞬はカメラとテープを見下ろした。
何を撮るのか。
誰と撮るのか。
どうやって撮るのか。
何もわからなかった。
ただ、さっきまで胸にあった空白の中に、小さな黒い点が生まれていた。
それは不安にも似ていたし、期待にも似ていた。
家に帰るころには、夕方になっていた。
瞬は自転車の前かごに、古いカメラの鞄を入れて走った。道路沿いの桜はほとんど散っていて、若い葉が風に揺れていた。
信号待ちで、瞬は鞄を見下ろした。
映画。
自分が映画を撮る。
そう考えた瞬間、あまりに現実味がなくて笑いそうになった。
けれど、笑えなかった。
胸が少しだけ熱かった。
青信号に変わる。
瞬はペダルを踏み込んだ。
何もないと思っていた高校最後の一年が、その日、ほんの少しだけ音を立てて動き出した。
【キャラクター紹介】
黒澤瞬
本作の主人公。監督兼主演男優。
顔立ちは整っており、高身長でほどよく筋肉のついた体躯。短く刈り込んだ色素の薄い髪が特徴。
見た目だけなら女子人気がありそうだが、本人の性格に少しクセがあり、思いついたら一直線に走り出すタイプ。そのため、周囲からはやや変人扱いされている。
高校三年の春、自分には何もないと感じていたが、祖父の家で古いミニDVカメラと出会ったことで、自主制作映画を撮ることを思いつく。
黒澤銀二
瞬の祖父。
本編では名前は出ていないが、設定上の名前は銀二。
若い頃、仲間たちと自主制作映画を撮っていた。内容は少し稚拙な特撮ヒーローものだったが、本人にとっては今も忘れられない「青春の一ページ」として残っている。
祖父の家で古いミニDVカメラを見つけた瞬に、かつて自分たちが撮った映画を見せる。その映像と「下手でもいいから、最後まで撮れ」という言葉が、瞬が映画づくりを始めるきっかけになる。
普段は穏やかで少し照れ屋だが、ものづくりに対しては大事なところをよくわかっている人物。瞬たちの映画を、静かに見守っている。




