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第十三話 クランクアップ

 ラストシーンの撮影日は、朝からよく晴れていた。


 黒澤瞬はいつもより早く学校に着いた。教室にはまだほとんど誰もいない。窓際の席に鞄を置き、机の上に脚本を広げる。


 最後のページ。


```

青年「君がここで歌ってたこと、俺は忘れない」


少女「じゃあ、忘れないでください」

```


 たった二行だった。


 けれど、その二行にたどり着くまで、ずいぶん遠くまで来た気がした。


 祖父の家で見つけたミニDVカメラ。


 仁晃に相談した朝。


 ライカと出会った非常階段。


 カノンの歌声が聞こえた屋上の扉。


 演劇部で突きつけられた現実。


 夜の学校。


 決まらないラスト。


 その全部が、この二行の後ろにある。


「早いね」


 声がして顔を上げると、小津仁晃が教室の入口に立っていた。


「ニコも早い」


「落ち着かなかった」


「俺も」


 仁晃は瞬の机の前に来て、脚本を見下ろした。


「今日で撮影、終わるね」


「終わるな」


 そう言った瞬の声は、自分でも少し不思議な響きだった。


 嬉しい。


 でも、寂しい。


 まだ終わっていないのに、もう終わったあとのことを考えている。


「終わったら、編集だよ」


 仁晃が言った。


「わかってる」


「映画は撮って終わりじゃない」


「わかってるって」


「本当に?」


「……少し忘れてた」


 仁晃は小さく笑った。


「でも、今日はまず撮り切ろう」


 昼休み、四人は校舎裏のベンチに集まった。


 北野ライカはカメラのバッテリーを確認している。ミニDVカメラと一眼レフ、予備のメモリーカード、三脚。機材はいつもより少し多かった。


 市川カノンは脚本を両手で持っていた。


 何度も読んだのだろう。最後のページには、小さな付箋が貼られている。


「緊張してる?」


 瞬が聞くと、カノンは正直に頷いた。


「しています」


「俺も」


「黒澤くんも?」


「かなり」


「少し安心しました」


 カノンはそう言って、小さく笑った。


 ライカが顔を上げる。


「今日、撮れる時間は三十分。屋上に入れるのは佐伯先生立ち会いで、放課後の四時半から五時まで」


「短いな」


「でも、光はたぶん一番いい」


 ライカは空を見上げた。


「雲も少ない。風は少しあるけど、昨日よりまし」


 仁晃はクリップボードを確認する。


「撮るカットは、少女の歌い終わり、青年の台詞、少女の返事、二人の引き、空のカット。余裕があれば手元とフェンス」


「余裕、あるかな」


「作る」


 ライカが言った。


 その言い方が頼もしくて、瞬は少し笑った。


 放課後までの授業は、ほとんど頭に入らなかった。


 時計の針ばかり見ていた。


 チャイムが鳴る。


 教室の空気が動く。


 文化祭準備に向かう生徒たちの声が廊下にあふれる。


 瞬は鞄を持って立ち上がった。


 今日で撮影が終わる。


 その事実が、胸の奥で静かに鳴っていた。


 屋上の扉の前には、すでに佐伯先生がいた。


「全員いるな」


「はい」


「時間は三十分。フェンスに寄りすぎるな。走るな。機材を置きっぱなしにするな」


「はい」


「それと」


 佐伯先生は鍵を差し込みながら、少しだけ笑った。


「いいの撮れよ」


 扉が開いた。


 夕方の光が流れ込む。


 屋上は、前に見た時よりもずっと広く感じた。


 空が高い。


 風がある。


 校庭から、文化祭準備の声が小さく聞こえる。


 ライカはすぐに動き出した。


「三脚、ここ。黒澤くんはフェンスから二歩手前。カノンさんはいつもの位置。小津くん、音は風を避けたいから少し低め」


「了解」


 仁晃が録音の準備をする。


 カノンは歌う位置に立ち、目を閉じて深呼吸した。


 瞬はその少し離れた場所に立った。


 青年の位置。


 見つめているだけだった場所。


 最後に、言葉を持つ場所。


「まず、歌い終わりから」


 ライカが言った。


「カノンさん、歌は最後のフレーズだけ。歌い終わって、少し間を置いてから振り向く」


「はい」


「黒澤くんは、歌を最後まで聞く。台詞はまだ言わない」


「わかった」


 仁晃が小さく言う。


「録音、回ってる」


 ライカがカメラを構えた。


「カメラ、回ってる」


 風が吹いた。


 カいた。


 ノンの髪が揺れる。


「アクション」


 カノンが歌った。


 最後のフレーズだけだった。


 けれど、その声は屋上の空気を変えた。


 最初に扉越しに聞いた時より、ずっとまっすぐだった。


 誰も聞いていないと思っていた声ではない。


 誰かに届くことを、少しだけ受け入れた声だった。


 歌が終わる。


 沈黙。


 カノンが振り向く。


「カット」


 ライカがすぐに画面を確認した。


 瞬は息を吐く。


「どう?」


「もう一回」


「だめ?」


「風で髪が顔にかかった。悪くはないけど、表情が見えない」


 カノンが慌てて髪を押さえた。


「すみません」


「謝らなくていい。風のせい」


 ライカは空を見た。


「少し待とう」


 風が弱まるのを待つ。


 その数秒が、やけに長く感じた。


 二回目。


 三回目。


 四回目。


 カノンは歌い、そのたびに少しずつ表情が変わった。


 緊張がほどけていく。


 少女が、歌い終える。


 逃げずに、そこに立つ。


「今の、いい」


 ライカが言った。


 仁晃も頷く。


「使える」


 カノンは胸に手を当てた。


「よかった……」


 次は、青年の台詞だった。


 瞬の番だ。


 ライカが位置を調整する。


「黒澤くん、少しだけ前。近づきすぎないで。声は張らなくていい。屋上だから届く」


「わかった」


 仁晃が脚本を見ている。


「瞬」


「何?」


「うまく言おうとしなくていい」


「うん」


「青年は、ようやく言えるだけだから」


「わかった」


 カノンが、少女の位置に立つ。


 瞬は彼女を見る。


 カメラが回る前に、胸の奥が少し熱くなった。


 これは芝居だ。


 でも、芝居だけではない。


 自分たちがこの数週間で見つけた言葉だ。


「録音、回ってる」


「カメラ、回ってる」


 ライカの声がする。


「アクション」


 カノンが歌い終える。


 振り向く。


 瞬は、一歩も動かなかった。


 逃げない。


 それだけを考えた。


 そして、言った。


「君がここで歌ってたこと、俺は忘れない」


 風が止まった気がした。


 カノンが瞬を見る。


 少女として。


 そして、少しだけ市川カノンとして。


「じゃあ、忘れないでください」


 声は震えていた。


 けれど、それがよかった。


「カット」


 ライカの声は小さかった。


 誰もすぐには動かなかった。


 瞬は息を吐いた。


 カノンも、ゆっくり肩の力を抜いた。


「今の」


 瞬が聞く前に、ライカが言った。


「よかった」


 仁晃も、脚本を持ったまま頷いた。


「うん。すごくよかった」


 カノンは目を伏せた。


「私、最後ちょっと声が震えました」


「それがいい」


 ライカが言った。


「撮れてる」


 撮れてる。


 その言葉で、瞬の体から力が抜けた。


 でも、撮影はまだ終わっていない。


「引きのカット、いこう」


 ライカが言った。


「時間、あと十分」


 佐伯先生の声が飛ぶ。


「了解です!」


 瞬は返事をした。


 最後の十分は、ほとんど走っているようだった。


 いや、走ってはいけないので、気持ちだけ走った。


 二人が屋上に立つ引きのカット。


 フェンス越しの空。


 カノンの手元。


 瞬の横顔。


 歌い終わったあとの沈黙。


 ライカは迷わなかった。


「次、空」


「黒澤くん、目線だけ」


「カノンさん、そのまま」


「小津くん、風の音だけ録って」


「あと一回。これで最後」


 最後。


 その言葉が出た瞬間、瞬の胸がきゅっと縮んだ。


 ライカがカメラを構える。


 カノンはフェンスの前に立つ。


 瞬は少し離れて、その横に立つ。


 仁晃が録音機を持つ。


 佐伯先生が腕時計を見る。


 夕方の光が、屋上全体を薄い金色に染めていた。


「ラストカット」


 ライカが言った。


「三、二、一。アクション」


 何も起きないカットだった。


 歌もない。


 台詞もない。


 二人が屋上に立っているだけ。


 でも、瞬にはわかった。


 これは終わりのカットだ。


 少女がここで歌っていたこと。


 青年がそれを聞いていたこと。


 そして、自分たちがここにいたこと。


 その全部を、カメラが静かに見ていた。


「カット」


 ライカが言った。


 少し間があった。


 それから、彼女はカメラを下ろした。


「オーケー」


 誰も声を出さなかった。


 仁晃が録音を止める。


 カノンが脚本を胸に抱える。


 瞬は、空を見上げた。


 終わった。


 その言葉が、ゆっくり体の中に降りてくる。


 佐伯先生が手を叩いた。


「時間だ。撤収」


「はい」


 瞬は返事をした。


 でも、足が動くまで少し時間がかかった。


 ライカがカメラの録画を止め、データを確認する。


 仁晃が脚本の最後のページを閉じる。


 カノンが屋上を一度だけ見渡す。


 瞬も、それに倣った。


 普通の屋上だった。


 灰色の床。


 フェンス。


 給水塔。


 夕方の空。


 でも、もうただの屋上ではなかった。


 ここには、映画の最後がある。


 屋上を出る直前、瞬は振り返った。


「クランクアップ、って言っていいのかな」


 仁晃が少し笑った。


「言っていいと思う」


 ライカがカメラを抱えたまま頷く。


「撮影は終わったから」


 カノンも小さく言った。


「クランクアップですね」


 瞬は屋上に向かって、少し照れながら言った。


「クランクアップ」


 その声は、風にすぐ消えた。


 でも、確かに言った。


 職員室に鍵を返し、佐伯先生に礼を言うと、先生は企画書を机の上に置いたまま言った。


「ここからが大変だぞ」


「編集ですよね」


「そうだ。撮影したものは素材だ。映画にするのはこれからだ」


 瞬は頷いた。


「でも、撮り切りました」


「それは偉い」


 佐伯先生は少しだけ真面目な顔で言った。


「最後まで撮れるやつは、意外と少ない」


 その言葉が、瞬にはまっすぐ刺さった。


 祖父も同じことを言っていた。


 下手でもいいから、最後まで撮れ。


 瞬たちは、まだ完成はしていない。


 けれど、撮影は最後までたどり着いた。


 校門を出るころには、空は暗くなり始めていた。


 四人は自然と立ち止まった。


 誰からともなく、今日撮った映像を少しだけ確認することになった。


 ライカのカメラの小さな画面に、屋上の二人が映る。


 カノンが歌い終える。


 瞬が言う。


 カノンが返す。


 沈黙。


 夕方の空。


 画面は小さい。


 音も完全ではない。


 でも、そこにはラストシーンがあった。


 仁晃が小さく息を吐いた。


「終わったね」


「撮影は」


 ライカが言う。


「編集がある」


 カノンが続ける。


「歌も、ちゃんと録らないと」


 瞬は三人を見た。


 この人たちがいなければ、何も始まらなかった。


 映画を撮りたいと言っただけの自分は、きっと最初の一歩で止まっていた。


「ありがとう」


 瞬は言った。


 三人が瞬を見る。


「急に?」


 仁晃が言った。


「急に」


「まだ完成してないよ」


「わかってる。でも、今言いたくなった」


 ライカは少しだけ目をそらした。


「そういうの、完成してからでもいいのに」


「今も言うし、完成してからも言う」


「大げさ」


「よく言われる」


 カノンは小さく笑った。


「でも、私もありがとうございます。誘ってもらわなかったら、屋上で歌ってたこと、たぶん誰にも言わないままでした」


 仁晃が脚本を抱え直した。


「僕も。書いたものを、人に渡せた」


 ライカはカメラを軽く持ち上げた。


「私は、動画機能をちゃんと使った」


「そこ?」


 瞬が言うと、ライカは真顔で頷いた。


「大事」


 四人は笑った。


 その笑い声は、校門の前の夕方に少しだけ響いて、すぐに消えた。


 夜、瞬は祖父に電話をかけた。


「撮影、終わった」


 電話の向こうで、祖父が少し黙った。


「そうか」


「うん」


「最後まで撮ったか」


「撮った」


「なら、まずは上出来だ」


 瞬は机の下のミニDVカメラを見た。


 もう古いだけの機械ではなかった。


 そこには、自分たちの時間が入っている。


「でも、まだ完成じゃない」


「編集があるからな」


「うん」


 祖父は少し笑った。


「そこから孤独だぞ」


「え?」


「撮影はみんなで騒げる。編集は画面の前で一人だ」


 瞬は思わず黙った。


 祖父の声が続く。


「でも、そこで映画になる」


 電話を切ったあと、瞬はしばらくカメラバッグを見つめていた。


 クランクアップ。


 撮影は終わった。


 けれど、映画はまだ完成していない。


 机の上には、脚本がある。


 バッグの中には、撮影した映像がある。


 スマホには、仲間たちのメッセージがある。


 そして、これから向き合う長い編集作業がある。


 グループチャットに、ライカから写真が送られてきた。


 屋上で撮った最後の空。


 夕焼けの中、フェンスの向こうに広がる雲。


 続けて、仁晃がメッセージを送る。


「クランクアップ、お疲れさま」


 カノンも続けた。


「お疲れさまでした。完成までよろしくお願いします」


 瞬は少し考えて、返信した。


「ここから映画にします」


 送信してから、少し恥ずかしくなった。


 けれど、消さなかった。


 撮影は終わった。


 青春の一ページは、もうカメラの中にある。


 あとは、それを一本の映画にするだけだった。


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