第七話 巡る季節と、足りない一つ
朝からの慌ただしさが、ようやく落ち着き始めていた。
監察課の見回りが去り、張り詰めていた空気がゆっくりと緩んでいく。
誰かが息を吐き、誰かが笑い、止まっていた時間が少しずつ動き出す。
神崎もようやく肩の力を抜いた。
(……なんとか、乗り切ったか)
今のところ大きなトラブルも、けんかも起きていない。
それだけで十分だった。
やがて各々が席に落ち着き、酒や食べ物に手を伸ばし始める。
談笑が戻り、場には穏やかな空気が広がっていった。
壇上は手にした杯をゆっくりと傾けた。
香りを確かめるように一度止めてから、口に運ぶ。
わずかに目を細め、ラベルを一瞥する。
その視線が、ほんの一瞬だけ揺れた。
壇上の視線が、一瞬だけ神崎に向く。
すぐに、外れた。
「……悪くないな」
それだけ言って、もう一度杯を傾ける。
その隣で、稲置が静かに頷いた。
「桜には、やはりこういう酒が合う。華やかすぎず、軽すぎず。土地の水が違うからな。同じ米でも、こうはならん」
穏やかな声が続く。
神崎は少し離れたところから、その様子を眺めていた。
声をかけるべきか、少し迷う。
だが、壇上は何も言わず、静かに味わっている。
そのときだった。
「なぜ、毎年こうして集まるのか」
壇上がぽつりと言う。
「分かるか」
視線は神崎の方へ向けられている。
「……分かりません」
首を横に振ると、壇上は桜を見上げた。
「季節は、きちんと巡る。それを確かめるためだ」
言葉は静かだったが、重みがあった。
少し離れたところで、西蓮寺がうんうんと頷いているのが見えた。
「人の時間は途切れるが、世界の流れは途切れない」
稲置が続ける。
「生きている者も、死んだ者も。その中にいる」
神崎は何も言えなかった。
壇上が続ける。
「だから、忘れないようにする。……自分たちが何を扱っているのかをな」
短い沈黙が落ちる。
「……また始まった」
猪谷がぼそっと呟く。
「年寄りの長話」
「いやいや、いい話じゃない?」
すぐに、唐津が続ける。
「まあでもさ、そろそろ盛り上がりも欲しくない? カラオケとかどう?」
神崎は思わず苦笑した。
(……もう少し、聞いていたかった)
だが場の流れは、もう次へ向かっている。
「……そろそろ、デザート出しますね」
立ち上がって、桜餅の箱を開ける。
友永がすぐに気づいて、隣に来た。
「お皿、並べるわね」
手際よく準備を進めながら、ふと口にする。
「さっきのお酒」
神崎が顔を上げる。
「あれ、壇上さんのお孫さんが継いだお店のものよね」
「……分かりました?」
友永は柔らかく笑う。
「ええ、あの人もね。気づいてるけど、言わないのよ」
皿を並べながら続ける。
「照れくさいの。でもきっと、嬉しいと思うわ」
少しだけ優しい声になる。
「私たち、生前のゆかりの地にはもう行けないものね」
その言葉に、神崎の胸がわずかに温かくなる。
「そういえば私もね」
友永は目を細めながら続ける。
「久しぶりに故郷の地酒が飲めて嬉しかったわ」
神崎は小さく笑った。
(……よかった)
桜餅を皿に並べていく。
一つ、また一つ。
ふと、手が止まる。
(……あれ)
もう一度数える。
足りない。
一つ、少ない。
(嘘だろ)
血の気が引いた、そのとき。
「おや」
背後から、聞き慣れた声が落ちた。
振り向くと、初江課長がにこやかに立っていた。
「ちょうどいいところに来たかな」
神崎は、桜餅の数と課長の顔を見比べた。
——よくない予感がした。




