職業【遊び人】魔術の極みに触れる
濁流殻禍魚の巨体が、目の前まで迫ってきていた。
海上の空を泳ぐはずの怪物は、もはや泳いでいるとは言えない勢いで突進してくる。巨大な尾が空気を叩き、濁流のような魔力が周囲に渦巻く。五十メートルの巨体が視界いっぱいに広がり、逃げ場を奪うように影を落とした。
「回避――!」
ソートの声が飛ぶ。
しかし距離が近すぎる。速度も速すぎる。回避しきる余裕がないことは、誰の目にも明らかだった。エレンが大杖を構えるが、詠唱の言葉が喉に詰まる。
防御魔法を組み立てる時間がない。
魔法は属性、出力方法、MP、そして安定度、詠唱によって形を保つ。
それがこの世界の魔法の基本だ。
だが今は、その詠唱の時間すら与えられていない。
カリナは反射的にスタッフを握り、魔力を流し込んだ。頭の中では、先ほどまで練習していた魔法の構造が浮かんでいる。
土属性。出力方法は壁。MPは五十。厚さは二メートル、幅は十メートル。
突進してくる巨体を受け止めるには、そのくらいは必要だ――そんな計算だけが、妙に鮮明に思い浮かんでいた。
(詠唱……)
言葉を考えようとした瞬間。
濁流殻禍魚が、さらに加速した。
巨大な口が開く。濁流のような魔力が喉の奥で渦巻くのが見えた。
(間に合わない)
その焦りのまま、カリナは魔力を流した。
五十の魔力は練習の時に理解した。それをそのままスタッフに流すと、スタッフは呼応した。
(なにこの感覚……)
スタッフが、カリナと同じペースで鼓動を打つ。
次の瞬間、魔力が尽きる。
海上の空間に、巨大な土壁が出現した。
濁流殻禍魚の巨体がその壁に激突し、衝撃が空気を震わせる。圧倒的な質量同士の衝突に土壁は軋み、亀裂を走らせながらも、確かにその突進を一瞬だけ食い止めていた。
「……え?」
エレンが声を漏らす。
メイトが目を丸くする。
ソートだけが黙ったまま、カリナを見ていた。
土壁はすぐに砕け散り、破片が空中へと飛び散る。濁流殻禍魚は体勢を崩しながらも再び空を泳ぎ直し、怒りの咆哮を響かせた。
その間、カリナは呆然としていた。
「……あれ?」
MPは確かに減っている。それに魔法は発動した。
しかし、疑問が残る。
詠唱をしていない。
それなのに魔法は発動していた。
カリナが考え込もうとした、その瞬間だった。
「『王行使』」
「うわっ!!」
メイトのスキルでカリナは引っ張られる。
会場スレスレで止まると、隣にいるのは心配そうな表情を浮かべるメイト。
「だ、大丈夫!?」
「う、うん。メイトのお陰で……でも――」
「下がってください」
低い声でソートが言った。
その声には、普段の落ち着きとは明らかに違う緊張が混じっていた。
鯨は体勢を立て直すと、再び大きく身体をうねらせる。空を泳ぐ巨体は怒りを露わにし、濁流のような魔力がその全身を覆い始めていた。
先程の突進はただの前触れだったのかもしれない。巨大な尾が振り上げられる。
「また来るわよ!」
エレンが叫ぶ。
だがその声よりも早く、ソートが前へ出た。
ステッキを握る手に魔力が集中する。
「これ以上は危険です」
いつもの丁寧な口調ではあるが、その声は明らかに急いでいた。
「終わらせます」
次の瞬間、ソートの周囲に複数の魔法陣が展開した。
「『天光大魔嵐線網』」
放たれた光の嵐が、濁流殻禍魚の巨体へと叩きつけられる。幾筋もの光線が網のように広がり、怪物の体を絡め取る。
巨大な鯨は咆哮しながら暴れるが、魔力の束縛から逃れることはできない。さらにソートは追撃の魔法を放つ。
「『虚大魔消撃』」
純粋な魔力の塊が濁流殻禍魚の胸部へと直撃した。
衝撃が空中に広がり、鯨の巨体が大きく仰け反る。鱗が砕け、濁流のような魔力が霧散していく。
耐久力の高いボスモンスターとはいえ、連続した上位魔法の直撃には耐えきれなかった。
濁流殻禍魚は最後に一度だけ空を震わせる咆哮を上げると、その巨体をゆっくりと崩しながら光の粒となって消滅した。
海上の空に、静寂が戻る。
「やったー!!」
真っ先に声を上げたのはメイトだった。
両手を上げて空中でくるくると回りながらはしゃいでいる。
「見た!? 見た!? 今の!? カリナすごかったよ!!」
メイトは勢いよくカリナの肩を掴んだ。
「無詠唱だよ!? 無詠唱!! そんなの見たことないよ!!」
「え、えぇ……?」
カリナは困ったように笑う。
隣ではエレンが完全に固まっていた。
「……」
大杖を握ったまま、濁流殻禍魚が消えた空を見つめている。
「……今の、何?」
ぽつりと呟く。
「詠唱……してなかったわよね……?」
「た、たぶん……?」
その時だった。
ソートが、すっとカリナの前に降り立つ。
その表情は、これまで見たことがないほど真剣だった。
「カリナ」
「はい?」
「質問があります」
間髪入れずに言う。
「先程の魔法。詠唱をしていませんでしたね?」
「えっと……たぶん……」
「属性は土。出力方法は壁。MPはいくつです?」
「え?」
「魔力の流し方は? 安定度の補正はいつ行いました?」
矢継ぎ早に質問が飛んでくる。
カリナは目を白黒させた。
「ちょ、ちょっと待って!」
「ソート質問多すぎ!!」
「詠唱が無い状態で魔法が安定するはずがありません。全ての条件が完全に成立していないと不可能なはず。カリナ、あなた今どうやって」
「え、えぇ!?」
カリナは完全に混乱していた。
「そんなこと言われても分かんないよ!!」
「分からない?」
「うん。なんか……壁作ろうって思って、魔力流したら……出た」
ソートが黙る。
メイトは大笑いしていた。
「すごいよカリナ!! 天才じゃん!!」
エレンはまだ呆然としている。
「……偶然?」
誰も答えられなかった。
ただ一人、ソートだけがカリナを見つめたまま、小さく呟いた。
「カリナ……あなたは――」




