第八話 終わりの声
夜十時を過ぎた頃。
玄関のドアが重く開き、圭介がふらつく足取りで帰ってきた。
ネクタイは緩み、スーツは皺だらけ。
その顔には、かつての“営業の笑顔”の欠片も残っていなかった。
「……おい、飯あるか」
掠れた声。
私は黙ってソファから立ち上がる。
そして、テーブルに一枚の紙を置いた。
白く冷たい紙。
離婚届。
圭介の動きが止まる。
視線が紙に落ち、しばらく無言のまま。
「……これ、なんだよ」
「見れば分かるでしょう」
「はぁ? お前、ふざけんなよ。
俺がこんな時に……お前は俺を捨てるのか!」
テーブルを叩く音が響く。
皿が揺れ、グラスが転がる。
それでも私は動じなかった。
「今さら何を言ってるの。
翔のことも、家庭のことも放っておいて……
都合が悪くなったら“支えろ”なんて、冗談じゃないわ」
声は静かだった。
けれど、その静けさが圭介の苛立ちを掻き立てた。
「俺がどれだけ大変か分かってんのか!?
会社も、世間も、全部俺を悪者にして——」
「それでも、あなたが選んだ道でしょう?」
圭介の声が詰まり、息が止まる。
その瞬間、翔の寝室から小さな寝息が聞こえた。
ふたりの間に落ちた沈黙は、もう修復できなかった。
「……これは、私からの答えよ」
離婚届をそっと押し出す。
手の震えは止まらなかった。
圭介はしばらく紙を見つめ、
やがて視線を逸らして呟くように言った。
「……お前まで、俺を見捨てるのか」
その言葉に、胸が痛んだ。
けれど私は、首を横に振った。
「違う。
あなたが“私たち”を捨てたの。
もうずっと前に」
言い終えた瞬間、胸の奥に長くこびりついていた痛みが、
ようやく形を失っていった。
*
その夜。
翔の寝顔を見つめながら、
私は静かに決意を固めていた。
「もう二度と、誰かの影で生きない」
小さく呟くと、涙は出なかった。
心の中の何かが、ようやく終わった気がした。
外では、雨が降り始めていた。
屋根を叩く音が、まるで拍手のように優しく響いた。
──その夜が、私の“再生”の始まりだった。




