第八話 決別
夜十時を回った頃。
玄関のドアが重く開き、圭介がふらつく足取りで帰ってきた。
ネクタイは緩み、スーツは皺だらけ。
精気の抜けた顔は、かつてのエリート営業の面影を残していなかった。
「……おい飯、あるか」
掠れた声でそう言い、鞄を乱暴に床に置く。
リビングのソファに座っていた優香は、黙って夫を見つめた。
その視線の冷たさに気づかないまま、圭介は水を煽る。
やがて苛立ったように声を荒げた。
「なんだよ、その目は。俺がどれだけ大変か知ってんのか!
会社は俺をスケープゴートにして切り捨てる気だ。
四十億の損失だぞ!? 俺ひとりに背負わせやがって……」
優香は立ち上がり、震える手でテーブルに一枚の紙を置いた。
白く冷たい書類——離婚届。
「……離婚してください。」
絞り出すような声に、圭介の顔色が変わる。
「はぁ? お前、ふざけんなよ!
俺がこんな時に……お前は俺を捨てるのか!」
机を叩き、怒鳴り声が響いた。
だが優香も怯まない。
「今更なによ!
私の子供のことなんて気にもしなかったくせに……
都合が悪くなったら“あなたを支えろ”って? 冗談じゃない」
二人の間に積み重なってきた年月が、一瞬で断ち切られたような沈黙が落ちる。
翔の寝息だけが、別の世界の音のように響いていた。
優香は静かに紙を差し出した。
「これは、私からの答えよ」
圭介は拳を握りしめたが、何も言い返せなかった。
*
同じ頃。
凛の部屋。
壁一面に貼られた優香の写真。
微笑む顔、翔を抱く姿、ふとした横顔……
その全てを前に、凛は恍惚の吐息を漏らしていた。
「……先輩。こんなにも美しいのに、どうしてあんな男の隣にいるんですか」
指先で写真をなぞり、唇を寄せる。
赤いルージュが一枚を汚す。
さらに舌でゆっくりと端を舐め取り、瞼を閉じて囁いた。
「笑顔も涙も……全部、私だけのものにしたい」
頬を擦りつけ、髪を指で絡める仕草。
それは恋ではなく、執着そのもの。
「必ず救い出します。
あなたを縛る鎖は、私が全部断ち切ってあげる」
だがその声は甘美でありながら、救済ではなく 所有欲と狂気 に満ちていた。
壁に囲まれた部屋で、凛はただ優香の幻影に酔いしれていた。