アンフェア
大学病院にいたのは1日だけだった。すぐに別の病院‥病院とは言えない「施設」に移された。入院理由は急性期統合失調症の治療と言う名目だった。テンプレートの様に最初から決められていたのだろう。
当然、酒も辞めさせられた。だがリスペリドンとクロザリルを飲まされているおかげで訳の分からない妄想と不安を感じることも減ってきている。冴えているとはいいがたい、ふわふわとした感覚の中で一日の大半を過ごしている。薬のせいだろうが不安よりもずっとましだ。
8時の朝食と服薬が終われば昼食までは自由になれる。ネットへの接続は禁止されている。本を読むような気分にはとてもなれない。だからタバコを吸うくらいしかやることがなかった。中庭に出て、紙巻きたばこに火をつける。タバコの煙が目に入り不意に浜町の家の映像が脳裏に浮かぶ。
薄いブルーのタイルが張られたキッチン。換気扇と3つ口のコンロ。料理をしない私はコンロの上に灰皿を置いている。すぐに映像が切り替わる。キッチンの方を向いて目を開けたまま動かないクラタ。クラタの体温、血の匂い、床に就いた指先がぬめって滑る感触がよみがえる。急いで思いついた言葉を叫ぶ。そうすることで頭に浮かんだ映像を消し去ることが出来ることを学んだ。
入院棟に入ってみて分かったが、意味の解らない言葉を突然叫ぶ患者は珍しくなかった。粗くなった呼吸を沈めようと深呼吸をしながら、座っていたベンチの隣に誰かが座るのを視界の端に捉えていた。
「小伝馬町までどうやってたどり着いた?」
どこかで聞き覚えのある固有名詞が聞こえて不思議に思い、その後すぐに首筋から背骨を通って心臓が収縮する。恐る恐るベンチに座った人影を見る。私はコウガミ・サトルを初めて見た。写真や映像で見るよりもずっと幼く、私のことを見るその目はどこか無邪気に見えた。だが身体は震えてしまい、しゃべろうとしても口が動かない。小さく震えるように頷きながら、ようやく、言葉が出る。
「大伝馬町だった。郵便局の消印。」
「やっぱりお前だったんだな。そうか、住んでるんだから土地勘があるんだな。他の奴なら見逃したかもしれない。あのくらいの距離なら別におかしいこともないだろ?」
コウガミの声のトーンが変わる。
「母親が死んだのは知っているか?クラタの事を恨むなよ。」
私はどこを見ていいのか分からずに、視線を色々なところに向けながら、なぜか手をのばそうとしたり、小さく手を振ってみたりしながら頷き続けていた。ここへ来てから精神的に動揺したのは初めてだったので薬がどう反応するのか分からない。
「次の外出日はいつだ?」
「4日後。」
「誰が迎えに来る?」
「宮城県警のヤマシタ警部補。」
「一人になる時間は?」
「前回と同じなら1時間くらいは独身寮で過ごせたけど、今回もそうか分からない。」
「業務用のPCは貸与されているか?」
「貸与されているが独身寮には無い。」
「持ち出せるか?」
「難しい。署内から持ちだすには申請が必要。」
「いつまで入院する予定だ?」
「4週間って言われてる。」
「強力すれば助けてやる。」
私は目を閉じて下を向いた。声は出なかったけど、笑ってしまってそれをコウガミに見られないように口元を両手で覆った。
「映画のセリフ。馬鹿みたい。」
不意にスイッチが入るように感情が切り替わる。
「用が済んだら殺すんだろ。クラタのように。」
また同じ場面がよみがえる。クラタはキッチンの方を向いて目を開けたまま動かない。少し開いた口は何かを言おうとしていたのだろうか。クラタの体温、血の匂い、床に就いた指先がぬめって滑る感触を思い出す。咄嗟にかき消すように関係ない言葉を放って頭に浮かんだ映像をかき消す。2階の窓から看護師がこちらに視線を向けたが、立ち止まりもせずに病室に入っていくのが見える。
「クラタかお前のどちらかでもよかった。ただ必ず一人は死ぬ必要があった。それで等価だからな。あとは利息分を払ってもらう必要がある。」
コウガミが立ち上がり、私を見下ろしている。私は細かく小さくうなずくのをやめた。
「人を殺すことを最初から選択肢に入れていたんだろ。クラタは翌日に殺された。一日で判断したんじゃない。タイミングがあればいつでも殺そうとしていた。お前との約束なんかに意味なんてないだろ。」
「民間出身の半端野郎のお前をいつまでここで保護すると思う?その後はどうする?国民のために働くんじゃなかったのか?それもやめて、いじけて生きるのか?それとも自分でクラタの方にいくのか?」
まるで私の事を知っているような口調に不安定になっていた感情が揺らぐ。私はこれまでの自分が否定されたように感じてこれまでの憤りをごまかせなくなって一瞬で怒りが吹き上がる。火のついたようなその感情のままコウガミをにらみつける。
「何が国民だ。クソガキが、知ったような口をきくなよ。そんな大層な理由なんて掲げてない。私がいたところで別に何も変わらないんだよ。」
私は首を振って下を向いたまま目を閉じて、額に手を当てる。
「私は調べるのが好きだった。大学の研究室の感じで居たかっただけ。役に立ちたいなんて思わなきゃよかった。あんたの事もただの偶然だった。それに私たちの仕事はそこまでで終わり。結局はいつも通り何もできない。何も変わらない。」
「拒否権があると思うなよ。お前らが勝手に絡んできたことだ。」
紙巻タバコに火をつけ、深呼吸するように煙を吸い込む。殺されようが何しようが、結局私は憤りから逃げられない。私は最初から研究室の中に居たかっただけだ。
「あんたに殺されるのが怖かったけど、殺されなくてもここを出たら戻るところなんてもうない。私の仕事なんて結局はいつも何もできない。あんたのことはもう私たちの範囲外。相手が日本人でもこれだった。国際犯だからっていつもごまかしていたけど、結局形だけだったということ。課の連中も他の奴らもみんな知っていたんだろうね。クラタも知っていたのかな。私は馬鹿にされているって勝手に思っていたけど、ほんとの馬鹿だったってことだった。」
全部ままごとだった。くだらない。ほんとイライラする。タバコを投げ捨てる。車いすの長髪の男が缶コーヒーを飲みながらそれをぼんやりと見ていた。
「あんたは私を使って何をしようってわけ?もうどうでもよくなった。協力してやるよ。また犯罪すんだろ?どうせやるなら、全部ムカつくからぐちゃぐちゃにしてくんない?」
コウガミは少し口を歪めた。笑った?
「薬は飲んでいるのか?それとも注射か?」
「その日の分をもらって飲んでいる。」
「今日から飲むな。」
「は?ふざけんな、それで私はどうなるんだよ?飲まなかったらまた酒に頼るしかなくなるだろ。それにいつも看護師が見ている前で飲まされているから飲まないなんて無理。」
「飲んだふりして後で吐き出せよ。もうお前の不安は消えてるだろ。殺されることがなくなったんだからな。それに俺に協力した後は、もうここに残る必要もない、酒なんか飲む必要もないだろ。1か月以内に退院しろ。」
そういって、コウガミがタバコを取り出し私に手渡してくる。私はそれとなくあたりを見回し、私たちを見ているものがいないか確認していた。
「期待しろよ。望み通りにしてやるから。」
封の空いた12mgのマルボロメンソール。私の吸っている銘柄と同じものだった。どこまでも嫌な奴だと思い、コウガミの後姿を睨みつけた。




