パニッシュ
コウガミ・カヨコがヒステリックに怒鳴るタイプには見えなかったが、我が子を思う母親とは、一般的にあのようなものだろうか。私は子供を持つイメージが出来ない。それどころか結婚すら考えられなかった。
薄い唇ととがった顎、薄い目の色が他人に冷たい印象を与えるのだと学生時代の友人に言われたことがある。実際に私は他人への興味が薄い。男も同じだ。男に頼ることも、たてることもない。可愛げがないとよく言われる。カヨコには可愛げがあった。思ったことを素直に口にして、笑って、怒って、自分の感情を隠さなかった。
考えが透けて見える。隙があるとはそういうことなのだと思う。私はそれを見て、田舎者だと思った。だとすれば、感情をむやみに見せないことが洗練されているということなのだろうか。カヨコから見れば世間話はすれど、自分の考えを出さずに本心を晒さず、聞かれればはぐらかし、聴き耳だけを立てて、黙っている、そんな私やクラタを卑しくひねくれていると思っただろう。
だが、それはたしなみだ。少なくとも他全員がそうしているのであれば、自分だけオープンにして生きていくのは難しい。そうしなければ不利になる。考えるのを辞めた。それは私がカヨコの様に生きられない理由であって、卑しくひねくれているのではないという理由ではなかったからだ。
その日は、新幹線の時間に間に合わず、東京に戻ることができなかった。名古屋駅近くのビジネスホテルに泊まり、翌朝の新幹線で東京に戻った。
コウガミの口調は一貫してまともな社会人を模していた。クラタが疑心暗鬼にさせたり、母親をチラつかせて脅したり不安を煽ったりしたことでうまく誘導できたのだとは思えなかった。コウガミのことをあんな事件を起こしたが実際は気が小さくて真面目な奴だと能天気に考えるわけにはいかない。しばらく追ってみて執拗な注意深さと忍耐が見てとれる。あれは思い付きでやった犯行ではない。コウガミはそういう奴だ。実際に現れるかも疑わしいが、やれることはやっておく必要がある。明後日のコウガミとの接触までにコウガミに関する情報を整理して、追加の人員をあててもらう。
翌朝までかかり、報告資料の目途が立った。クラタが久松署に車を返却するというので、ついでに一度家に帰って荷物を置くことにした。マンション前に着くと課長から連絡があったため、クラタに部屋に荷物を置いてくるように指示をする。
ミカちゃんって、マジ人使い粗いよな。普通は感謝するだろ。俺のファインプレーのおかげでコウガミが姿現すっていうのに。クラタがミウラの荷物をもって4階に上がる。
そう言えばミカちゃんの家に入るのって、初めてだな。どんな家に住んでいるんだろ。案外ああいう人に限ってフリフリとか、ピンクの部屋好きだったりするからな。まじで女ってわからないんだよな。
「お邪魔しますね。へぇ、結構いい部屋に住んでるんだな。独身寮よりも全然広いじゃん。こっちがバスルームね。で奥の部屋が寝室か。せっかくだから寝室がどんな感じになっているか見せてもらおうかな。」
クラタがバスルームから目線を外して奥の部屋へ進もうとする。その瞬間、背後から口をふさがれ、首に何か押し当てられた。
熱い。しびれるような感覚。いや、肩口が温かい。お湯?上から漏れてる?肩に触れる濡れて温かい。暗い部屋の中、濡れた指先を目に近づけよく見ると濡れている部分が赤い。恐る恐る首の熱いと感じたあたりを触る。激痛が走る。べとつく首筋。ワイシャツの少し上あたり、ゆっくりと痛みの中心をなぞり、指先がかかりそうな深い断面に触れる。人差し指の長さほどにそれが広がっているのを確認する。切り傷だと認識が出来たころには痛みと怖さで震えていた。スーツのジャケットの袖から滴るほどの出血量を目にして怯えと不安からめまいがして、呼吸がうまくできない。
止血しないと、電話、病院、誰か、思考できない。混乱しているため何をするためにどう動けばいいか分からない。上がってくる吐き気を抑える。次第に寒くなって、弛緩していく身体に気が付く。筋肉に力を込めて両腕を組んで小刻みに震えて必死に抵抗する。突然、意識が保てなくなり、目を開けていられないほどの眠気に襲われる。うつらうつらとする視界の先に若い男が立っているのが見えた。
ミウラ・ミカはクラタに指示を出した後、かかってきた課長の電話に出ていた。これまでの状況を報告し、説明が終わるとすぐに戻って来るように怒鳴られた。勝手に動いていたことが癪に障ったのだ。課長との通話が終わってスマホの画面を見ると26分の通話時間が表示されていた。クラタはまだ戻ってきていない。あいつ何やってんだよ。人の部屋でくつろいでいるんじゃないだろうな。
しかたがないので部屋にクラタを呼びに上がる。玄関の扉を開けると日中でも光が入らないリビングの照明がついていない。
「クラタいるか?」
部屋に入ろうと靴を脱ぐと、すぐに足元の何かにつまずく。つんのめって、前に倒れた拍子に手をつくと床が濡れている。べとつく手のひら。思わず声を出す。嗅いだことがあるような匂い。
「クソ。なんだよ。」
そういえば、いつ家を出たのか覚えていなかった。飲みかけのビールの缶でも落としたのだろうと思った。起き上がってリビングの照明のスイッチを探る。
照明をつけるとクラタがうつ伏せで倒れていた。顔から胸のあたりまで赤く染まっている。つまずいたのは玄関側に伸びたクラタの足だった。一瞬それが何か考えて固まってしまった。濡れた手のひらを見てそれが血だと理解する。さっきの匂いは血の匂いだ。初めて見る血の量とその匂いにまた思考が停止していた。ようやく、それらが何を示しているか理解できたと同時に、立っていられずに不格好に腰をゆっくり落として尻餅をついた。腰が抜けてしまって立てなくなった。殺人現場を見たのは初めてだった。
「クラタ?おい。クラタ?」
クラタは目を開けてキッチンを向いたまま動かなかった。署に戻って課長に連絡しないと、そう考えることはできたが、座り込んだ姿勢のまま立つこともできず、瞬きしないクラタから目を離すこともできなかった。




