死の淵で見た女の子2
上も下もなく、ただ真っ黒な空間だけがあった。
右腕を貫いていた触手は、ぼくをこの世界に引き込んですぐにどこかへと消えてしまっていた。触手が引き抜かれるときの痛みは筆舌に尽くしがたく、穿たれた穴からは今も熱いものが逃げていく。
まずデジャヴュを感じた。死にかけるたびに既視感を覚えるんだとしたら、笑えるな。ぼくは口端を上げようとして、しかし途中で止めた。
死にかけたでは済まない。ぼくは死ぬのだ。もう、間もなく。
ここには何もなかった。天も地も風も空もない。ただ暗闇だけが広がる空間で、血を垂れ流した末にひとりで死んでいく。
強烈な孤独感がぼくを襲った。体が震えて止まらないのは失血のせいだけではなさそうだ。
怖かった。生まれて初めて感じる強い恐怖に、この感情そのものがぼくを殺すのではないかと思えて、怖くてたまらなくなった。
思考が漫然としていく。目が見えているのかどうかも、黒で覆われた世界では確かめることができない。自分の体がちゃんとここにあるのかすらわからなくなって、腕の痛みと失われる熱だけが肉体の存在を証明しているようだった。確かめ続けていないとそのまま消えてしまいそうで、何かを発しなければならないと焦燥感に駆られて、
「いや、だ……」
捻り出した声は我ながら哀れになるほど悲愴だった。それでも、なりふり構ってはいられない。
「死にたく、ない……」
みじめだ。祈りも空しく、ぼくは死ぬ。今にも死ぬ。もうすぐ死ぬ。死ぬ、死ぬ、死ぬと狂ったようにわめき続ける頭の中の声がうるさい。
気づくと、右腕を伸ばしていた。まだ動いたのか、と驚いた。痛みはなく、感覚が曖昧で、体の自由はすでに失われているというのに。ぼくの右腕は何かに導かれるように、届かない星を掴もうとするかのように、力無く前方へと伸ばされている。ぼくはそれを他人事のように見つめている。
そして光を見た。
またしてもデジャヴュだった。
銀色の光が近づいてくる。光は人間だった。妖精のように美しい少女は、その整った顔貌を切迫した表情で歪ませながら叫んでいる。
「紫童くん!!」
紛れもない現実として、星崎さんがそこにいた。その後ろにはアルト、そしてレナさんや神宮寺さんたちが続く。
星崎さん、と名前を呼ぼうとして、声が出なかった。ぼくはもう、闇に漂いながら目の前の出来事を見つめることしかできない。
ついにぼくの右腕を星崎さんの手が掴んだ。星崎さんの表情に安堵の色が浮かぶ。
危ない、と声をかけることはできなかった。
ほとんど感覚を失ったはずの体に、大きな衝撃を感じた。痛みはほとんどなかった。熱の流失が加速して、ぱたぱたと水滴のようなものが顔を打つ。ぼくの瞳は目の前の情景を映すことしかしない。
星崎さんの左手が、引き千切ったぼくの右腕を掲げ持っている。
「──は?」
目を丸くした星崎さんの口から、か細い声が漏れる。自分が手にしているものを、信じられないといった様子で見つめ、それからぼくを見て、瞳が揺れた。
「……あ、」
震える声を聞いて、ぼくの意識は少しだけ輪郭を取り戻した。
「あああ……」
その声が悲しくて、泣きそうになる。
大丈夫ですよ、と声をかけてあげたかった。けれど相変わらず体は動いてくれず、ぼくの望みは叶わない。
始祖の触手に操られただけです。あなたが悪いんじゃありません。
そう伝えてあげたいのに、できないのがもどかしい。
「あああああああああああ!!」
星崎カンナの心が折れる様を、ただ見届けることしかできないなんて。
戻ってきた意識はまた急速に曖昧になっていき、目の前で取り乱す星崎さんのことを遠い世界の出来事のように眺める。視界が狭まっていく。
まずい。最期だ。何かしなければ。その焦りがぼくを突き動かした。消える直前の灯火が光を増すみたいに、なけなしの力を振り絞る。
ぼくは残った左手で星崎さんの頬に触れた。
星崎さんが涙に濡れた顔でぼくを見た。
どんな表情をしていたか、確認するより先に意識が遠のいたのは残念だけれど、仕方ない。
ぼくはうまく笑えただろうか。
ありがとうが伝わっているといいなと思いながら、眠るような気だるさのなかに身を沈めた。




