誤解と期待
不意にのどの渇きを覚えて目を覚ました。
むっくりと体を起こす。照明が消されたリビングは窓から差す月の薄明かりで仄かに光っていた。名前の知らない虫たちの合唱と、エアコンの運転音だけが聞こえる部屋。星崎さんとレナさんは二階の寝室で寝ている。意味がないとは思いつつ、なんとなく忍び足でキッチンへと向かう。
水道水を飲んで人心地つけたあと、大きな窓にかかったカーテンを開いて外を眺めた。バルコニーの向こう側には道路が左右に走っていて、その奥は一面闇に覆われていた。そこには海がある。昼間はとても素敵なオーシャンビューだけど、夜に眺めるのは少々不気味だった。闇の中に赤い筋が走る様を想像してしまう。筋に沿って開くと赤黒く蠢く粘膜が現れるのだ。そうしてぼくを引きずり込んでいく。捕食するために。
「起きてたんだ」
「うわあ!?」
かけられた声に驚いて悲鳴を上げる。星崎さんが後ろにいた。驚いた、と目を丸くしている。
「す、すみません。びっくりしちゃって」
「こっちこそごめんね。眠れないの?」
「のどが渇いて、ちょっと水を」
「そっか。わたしはなんだか寝つけなくて」
星崎さんは冷蔵庫を開けると、牛乳を取り出し、戸棚からグラスを出して注いでいく。その動作をぼんやり見ていると、目が合った星崎さんが微笑んだ。仕草がいやに妖艶で、どきりとする。
「よかったら少し話さない?」
ぼくと星崎さんはソファーに並んで座った。牛乳で乾杯をして、レースカーテン越しに外をぼんやり見る。表は真っ暗で見えるものといったらぽつりと浮かぶ月くらいだった。
「窓、開けてみようか」
星崎さんの提案で、ぼくたちはカーテンを開け放ち大きな窓をカラカラと開いた。するとそこから気持ちの良い夜風が吹き込んで……くるならよかったのだけど、実際は生ぬるくて磯臭い空気がむわりと立ち昇ってきただけだった。ぼくたちは顔を見合わせた。それからお互い苦笑いをする。
「閉めよう」
「ですね」
ぼくと星崎さんはソファーに座り直す。室温が上がったことをセンサーで感知したエアコンが運転強度を上げた。冷風が天井から降ってくるのを感じる。文明の利器万歳。
「紫童くん、寝てないんだって?」
星崎さんは静かな表情をしていた。
「ごめん。レナとの会話、少し聞こえちゃった」
頭の後ろのあたりがすっと冷たくなる感じがした。どこまで聞かれたのだろう。聞かれてまずい話はしていないけれど、聞かせるつもりで話してはいないので気まずさがある。
「魔法は使えそう?」
どこまでもフラットな星崎さんの口調。それはただただ事実を確認するだけの問いだった。
「……わかりません」
正直に答える。
「因果の縁、星崎さんとの見えない繋がりは以前よりも強く感じる気はするんですけど」
「うん。わたしも前より感じるよ。紫童くんの気配」
「でもそこから先に進めている感じがしなくて」
四ノ宮さんは言っていた。「因果の縁が右腕に絡まりついている」と。見えないけれど変化はあるようだ。しかしそれが何を意味するのかはわからない。もしかしてぼくがやっていることは大きな間違いなのではないかと不安がよぎることもある。
それでもやるしかない。ぼくにはこれしかないから。
「無理しないでね」
期待もしなければ、もちろん見くびるわけでもない態度。ただ純粋に、ぼくの体だけを気遣っている。
ぼくが成果を上げられようがいまいが、星崎さんは変わらない。外の出来事で、彼女は揺らがない。
だから。
「──なにかあったんですか」
何かが変わって見えたとしたら、それは星崎さんのなかで起きたことなのだと思った。
星崎さんは少し驚いたような顔をして、それから目元を細めた。
「……どうして?」
理由なんて自分にもわからなかった。強いていうなら……そう、間だ。今だってそうだ。「どうして」と聞き返す前に置かれた、わずかな間。本心を隠すために必要な数秒。
幹部を倒したあの日から、星崎さんの振る舞いの端々に小さな違和感を覚えるようになっていた。
妹のミカの姿が浮かんだ。いつもとわずかに違う挙動を妹が取るときはたいてい、本当の気持ちに蓋をしているときだった。ミカはわかりやすかったから、星崎さんとはもちろん違う。それでも、ああいうときのミカが抱いていたのは、いつも──
「不安ですか?」
星崎さんは表情を変えなかった。ただまっすぐにぼくを見返している。青白い月明かりが彼女の細い輪郭を浮き上がらせていた。
ふ、と。小さく笑って、星崎さんは、
「おもしろいね紫童くんって」
ピアノの高音を一音だけ鳴らしたような、透き通る声。その声にぼくは、彼女が何か開き直ったような色を感じる。
「魔法少女になったのはわたしが最初なんだ」
星崎さんはソファーの上で膝を抱えた。
「レナも、ヒマリも、スズカさんもまだいなかったとき。わたしは世界に唯一の魔法少女だった。対するのは、無数の怪物たち」
手が届かなかった人たちがいた、と語る星崎さんの口調は淡々としていた。
「仲間ができて、足りない部分を補ってもらえて、それからはシャドウの犠牲になる人を出さずにここまでこられた。だけど、今でも夢に見る。護れなかったあの人たちのこと。そして、紫童くんのことも」
「ぼく?」
「夢の中でわたしは、紫童くんを助けられないの。どれだけ手を尽くしてもだめで、紫童くんはわたしの腕の中で冷たくなっていく。きみが事切れるとき、ずしりと重くなるその感覚がまるで本物みたいで、目が覚めてもしばらく怖いんだ」
「……もしかして、寝つけないっていうのは」
「ごめん。悪夢を見たから眠れなくなったのが本当。この合宿があまりにも楽しかったから。だからそんな夢を見たのかな」
幻滅した? と星崎さんが聞いた。
「そんな弱い精神でどうするって、失望しなかった?」
はじめ、なにを言われたのかよくわからなかった。それからすぐに強めの否定が口から出た。
「するわけないじゃないですか」
するわけがない。誰がどうしてそんなことを言えるのだ。誰よりも戦ってきたのは彼女だというのに。
「よかった」星崎さんはほっとしたように笑った。「安心した」
その表情があまりにも儚くて、ぼくは自身の不明を恥じた。
星崎カンナという少女のことを、ずっと誤解していた。彼女のうわべだけ、強さとか才能とか、そういった見栄えのいいところにだけ目を奪われてきた自分に腹が立った。
もちろんそれは彼女の魅力だけど、すべてではない。そんな当たり前のことを、見過ごしていた。
「この際だからもう少しだけ、わがままを言ってもいいかな」
申し訳なさそうに苦笑する星崎さん。もちろんと、一も二もなくぼくは頷く。
「わたしに期待することを諦めないでほしい」
星崎さんは涼やかな声で言った。これまでで一番強い光がその目に宿っていた。星屑を散らしたような、碧い瞳。
「紫童くんには隠しごとができないみたいだから、本当のこと話した。わたしの弱い部分まで全部。だけど同情はしないでもらえると嬉しいんだ。わたしは紫童くんに期待されるわたしのままでいたい。その期待には必ず応えてみせるから」
つくづくぼくは、星崎カンナという女の子のことを見誤っていたらしい。浅はかな内心を見透かすかのように、彼女は心変わりしそうだったぼくに釘を刺した。
それは覚悟のいる行為だっただろう。
弱さをさらけ出した上で、それでも自分を諦めないでほしいと彼女は望む。
身震いがした。
なんてかっこいい女性なんだろうか。
「……始祖、でしたよね」
「うん?」
「敵の親玉の名前」
「そうだよ」
「強いんですよね」
「強いよ。そのうえ卑怯で狡猾」
「でも星崎さんなら倒せますよね」
ぼくは握りしめた拳を星崎さんのほうへ差し出した。
「そんなやつ、ぶっ飛ばしてください」
星崎さんは笑った。不敵な笑みだった。それから自分の握りこぶしをぼくのそれにこつんとぶつけた。
「うん。まかせて」
「期待してます」
「ふふ。期待されてる。緊張するな。でも嬉しい。うん。約束するよ。始祖はわたしが滅ぼす」
星崎さんの瞳は月明かりを映して濡れたように輝いている。彼女の宣誓を聞きながら、ぼくも内心ひそかに決意した。
ぼくはやめない。たとえ期待されていなくても、ぼくにできる努力を続けることをやめない。星崎さんの力になるために何ができるか、考えることをやめない。
◆
こうしてぼくらは充実した合宿生活を終えた。
受験勉強はまだ続く。そして夏休みも。合宿ではなくても、また集まって一緒に勉強しよう。そんな約束を交わしてぼくたちはそれぞれの家路についた。
だけどその約束が果たされる機会は訪れなかった。
合宿から戻って数日後。
八月一日の夜、その事件は起きた。
その日を境に、魔法少女たちの運命は大きくねじ曲げられていくこととなる。




