八月一日 夜
不意の胸騒ぎで息を呑んだ。
自室で机に向かって勉強をしていたところだった。顔を上げて時計を見る。午後十一時を少し回っていた。どきどきして落ち着かない気分が増していく。突然どうしたのだろう。何かがおかしい。
アルトが険しい表情をしてぼくを見ていた。それで悟る。星崎さんに何かあったのだ。因果の縁を通して、彼女の感じる不安や緊張が伝わってきているのだと理解した。
「結界が破壊された」
「……え?」
「おびただしい数のシャドウが一度に湧いたらしい。迎撃機構に過負荷がかかって自壊したようだ。今、カンナたちが対処に当たっている」
忌々しそうに口元を歪めるアルト。
「俺も今すぐカンナのもとに駆けつけたいところだが、貴様を護れと命を受けてる。まったく迷惑な話だ。おまえはいつになったら自分の身を護れるようになるのか」
「……ごめん」
「ふん。謝って済む話か」
厳しく責めるような物言いだが、アルトもわかっているはずだった。仮に魔法が使えるようになったところで、付け焼き刃の技術で戦うことはできない。わかっていてぼくを詰るのは、吐き出さずにはいられないからだろう。反論する気にはならなかった。ぼくがアルトや星崎さんの足を引っ張っているのは事実だ。それによって窮屈な思いをさせているのだから、アルトの鬱憤を受け止める責任がぼくにはあった。
「……それにしても、少し様子がおかしいな」
アルトが怪訝そうな声で言う。
「カンナたちの交信する声がひどく不安定で切迫している。何か想定外のことが起きているのかもしれない」
アルトの不安がぼくにも伝わってくる。
何かニュースになっているかもしれないと、ぼくはスマホでSNSを開いてみた。
「……は? なんだよこれ」
目を疑うような画像や動画が大量に流れてくる。
事件は渋谷駅周辺で起きているようだった。
ぼくが見たその動画は元々ライブ配信されていたものの転載だった。映されているのはスクランブル交差点。
大勢の人が横たわっていた。
倒れた人たちはぴくりとも動かない。すぐに理解した。彼らはすでに死んでいるのだと。よく見れば、倒れている人たちはみな足や腕が欠けていたり、全身血まみれだった。
路地へ入ったカメラは、画面の奥に向かって逃げていく人の背中を捉えた。被写体の姿が一瞬暗転する。カメラがまばたきしたかのような映像の乱れ。黒い影が横切ったのだとわかった。
「ぎゃあ」という悲鳴が小さく届いた。
逃げ走っていたはずのその人がたたらを踏んで体を傾げ、飛沫のようなものが飛び散った。
前のめりに傾いていく体の上半身と下半身が別々の方向に倒れ、画面内から動くものの姿が消えた。
違った。蠢く影が、倒れた人間の傍らに、自動販売機の陰に、建物の側壁に、いたるところにあった。
撮影者の荒い息づかいが聞こえてくる。『ヒッ』と小さな悲鳴と同時にカメラが前後左右に激しく振られる。
無数の黒い影がいつのまにか撮影者を取り囲んでいた。
『あっ!? ああああぎっ!! ぎいぃ!!』
画面が大きく揺れた。地面に落ちたらしいカメラは建物に区切られた狭い空を映し出した。野菜にかぶりつくような音が立て続けに聞こえ、何回目かの音と同時に飛んできた赤黒い液体がレンズを塗りつぶしたところで動画は終わっていた。
ぼくは転げ落ちるような勢いで階段を下りた。
両親はNHKのニュースを見ていた。リビングへ下りてきたぼくを見たお父さんは一瞬険しい表情をしたあと、思い直したように表情を緩めた。
「渋谷で何か起こってるみたいだ」
暴動か、テロかもしれない。そう言ったお父さんの声は平淡だった。家族を混乱させないよう、冷静であろうと努めているのだとわかる。
そんなお父さんに、ぼくは冷ややかな視線を向けそうになった。
暴動かテロだって? 何をばかなことを。全部、シャドウの仕業だっていうのに。
ぼくのこのふつふつと湧き上がる怒りは、つまるところまったくの八つ当たりだった。事情を知らなければ、暴動やテロといった現実的なところに原因を求めるのは何もおかしくない。けれど、緊急事態に親が的外れなことを言っているという現実が、なんだか無性に腹立たしかったのだ。自分の子供っぽさがいやになる。
『見えますでしょうか! 渋谷の街から複数の黒煙が上がっております!』
中継ヘリコプターに乗った男性アナウンサーが声を張り上げている。ズームアップしたカメラが渋谷を上空から撮影している。夜の闇の底から、光り輝く摩天楼がいくつも生えているようだった。街が明るいから、そこかしこから黒煙が立ち上っているのがよく見えた。この画角内に、いったいどれほどの数のシャドウが蠢いているのだろうと考えると、寒気がした。
『……おや? なんでしょうか。今、渋谷上空を何かが横切ったような……』
アナウンサーが不思議そうに口にした言葉。それだけで、ぞっとする予感と恐怖を感じたのは恐らくぼくだけだろう。
『やはり、たしかに何かいますね。暗くてよく見えませんが……鳥、ですか?』
アナウンサーの男性の目に映るものを、カメラはなんとか捉えようとする。写せるわけがなかった。影は闇に融け込むのだから。
『……あの鳥、こちらに向かってませんか? ……は? でかっ、でかすぎる。待っ、まずいまずいまずい。えっ、恐竜? 恐竜? うそだろ。やばいやばいやばい逃げっ、────』
あっという間の出来事だった。狼狽するアナウンサーの声。翼竜のようなシャドウが一瞬だけ写り込んで、直後映像は激しく乱れ、音声が交錯する。かすかな悲鳴と鳴り続けるアラート音をしばらく響かせたあと、何かがぶつかるような音とともに中継はぷっつりと途切れた。
ぼくは苦しくなって、自分が呼吸を忘れていたことに気がついた。息をしようとしたけれど、深く吸い込むことができない。目の前で起きたことがなんなのか、理解が追いつかなかった。いや、たぶんぼくは、何が起きたかをわかっている。ただそれを認めたくないだけだ。
ニュース番組の映像はスタジオに戻されているが、テレビ番組に似つかわしくない重苦しい沈黙が漂っていた。中継クルーの安否を気遣うような言葉や、映像の乱れをお詫びするセリフが聞こえた気がしたけれど頭に入ってこなかった。
「ねえお兄ちゃん」
後ろからかけられた声に、飛び上がりそうになった。階段の中ほどに立ったミカが困惑した表情でスマホを差し出していた。
「これ、カンナちゃんだよね?」
ミカが友達とのトーク画面を見せてくる。
送られてきていたのは、SNSに投稿されたらしい動画だった。
そこには、魔法少女の姿でシャドウと戦う星崎さんたちの姿がばっちりと写っていた。
「カンナちゃん、何してるの?」
怯えた瞳でぼくを見るミカ。ぼくは何も答えることができず、妹の目を見返すことしかできなかった。
「どういうこと?」
部屋に戻ったぼくは、ミカから転送してもらった動画を見せながらアルトに詰めよった。アルトは苦虫を噛みつぶしたような顔で動画を食い入るように見たあと、言った。
「認識阻害魔法が解けている」
「どうして」
「……カンナは大勢を助けたんだろう」
アルトの言うとおり、星崎さんの姿が撮影された動画はこれだけではなかった。少し調べただけでも「正体不明の戦う女の子」に関する話題はいくつも見つけることができた。
「結界と同じだ。過負荷がかかって、耐えきれず自壊した」
アルトが動揺しているのが見て取れる。本当は今すぐ星崎さんのところへ駆けつけたいだろうに、ぼくへの嫌味すら口にしないのは、事態がそれほど切迫しているということだ。
「カンナは負けない」
自分に言い聞かせるようにアルトは言葉を吐き出す。
「俺の契約者は強い。彼女の心配はいらない。だから、俺は俺の使命を果たす。おまえを護りきるのが俺の仕事だ」
ぼくをにらみ上げる銀狼。その目に宿る決意は本物だった。星崎さんのパートナーがアルトでよかったと心底思う。
「お兄ちゃん?」
ドアをノックする音とミカの声。アルトは素早くベッドの下に潜り込んで身を隠した。扉が開いて、ミカが部屋に入ってくる。眉を下げて、今にも泣きそうな顔をしている。
「なにか声が聞こえたけど……」
「友達と通話してたんだ」
「あっ、邪魔しちゃった? ごめん」
「大丈夫だよ。もう終わってたから」
話しながら違和感に気づく。なんだか妹の態度が妙に殊勝だ。
「どうかしたのミカ」
「……別に。どうしたってわけじゃないんだけど。話し声が聞こえたから、だから……」
もごもご言いながら髪を触るミカ。言いづらい頼みごとがあるときの癖だ。何を言いたいのか、なんとなく察しがつく。
「そうだミカ」
「うん?」
「今日は一緒に寝ない?」
だから先に口にすることにした。
「は、はあ? 何言ってるの急に」
怒ったように言うミカ。けれど嬉しそうなのが態度でばればれだ。
「ひとりで寝るのが不安でさ。ミカと一緒なら安心できると思って。だめかな」
「なにそれ。お兄ちゃん子供っぽい。……しょうがないなあ。いいよ。ちょっと待ってて。今まくら持ってくるから」
「ありがとう」
ほっとした様子で部屋を出て行くミカ。わかりやすくて可愛い妹だ。
準備を終えたミカと並んでベッドに入り、明かりを消す。
「おやすみミカ」
「うん」
ミカに背中を向ける体勢で横になったけれど、ほどなくしてちょいちょいとパジャマの裾を引っ張られた。
「お兄ちゃん、こっち向いてよ」
向き合うように体勢を入れ替える。するとミカはぼくの胸に頭を押しつけるようにして体を近づけてきた。ミカの持つ生命力そのものみたいな熱が伝わってくる。
ミカがぼくの手を取って、自身の頭の上に導いた。ぼくは手を上下させて、ミカの柔らかい髪を撫でる。ミカの呼吸が深くなっていくのがわかる。体から力が抜けて、少しずつ眠りの世界に沈んでいく。
「カンナちゃん、大丈夫かな」
ぼんやりした声でぼそりとつぶやいたミカ。
「無事を祈ろう」
ぼくの返事は聞こえたのかどうか。ミカの寝息がしてくる。ぼくのパジャマの裾を掴んで寝入る表情は、緊張が解けている。
大切な妹。ぼくが護る。何があっても。そう決意して、ぼくは目を閉じる。




