9.問
父が亡くなったのは、冬の終わりだった。
朝、私は父の部屋へ行った。
父は眠るように横たわっていた。
窓は少し開いていて、薄いカーテンが静かに揺れていた。
私は父の顔を見た。
そこには、もう何も語らない人間がいた。
私は父の手を握った。
冷たかった。
その瞬間、私は父の言葉を思い出した。
風は変えられん。
帆は調整できる。
父はもう帆を調整することができない。
しかし、父が残した言葉は、私のなかに残っている。
私はその言葉を、何度も考えてきた。
父が何を伝えたかったのか。
あれは自由についての言葉だったのか。
運命についての言葉だったのか。
あるいは、ただ漁師として生きるための知恵だったのか。
父に尋ねることは、もうできない。
私は初めて、意味というものが必ずしも言葉を発した人間のなかにあるわけではないのだと思った。
言葉は、語られたあと、聞いた人間のなかで別の意味を持ち始める。
父が何を考えていたのかは分からない。
しかし、私が父の言葉から何を考えたのかは、確かに私のなかにある。
それが正しいかどうかは分からない。
それでも、私はその言葉を手放せなかった。
葬儀が終わったあと、直人が村へ来た。
彼は父の墓の前で、しばらく黙っていた。
「いい人だったな」
彼はそう言った。
「そうだな」
「お前の父親は、最後まで自分の生き方を変えなかったんだろうな」
私は少し考えた。
「変えなかったのか、変える必要がなかったのかは分からない」
直人は笑った。
「相変わらずだな、お前は」
そのあと、私たちは港へ向かった。
直人は海を見ながら言った。
「俺は今でも、風を変えたいと思ってるよ」
「そうか」
「でも、風を変えようとすることと、帆を調整することは、両立するのかもしれないな」
私は彼を見た。
「前は違うと思っていたのか」
「そうだな。どちらかを選ばなきゃいけないと思っていた」
彼は海を眺めた。
「でも、世界を変えようとすることも、自分が生きるために帆を動かすことも、同じ人間がやっていることなんだよな」
私は返事をしなかった。
直人は続けた。
「結局、どっちが正しいかなんて分からない。ただ、何もしない理由にしたくはないんだ」
私は、少しだけ笑った。
直人の言葉は、父の言葉を否定するものではなかった。
父が風を受け入れたように、直人は風に逆らおうとしていた。
しかし、どちらも風のなかで生きていた。
そのことだけは、確かなように思えた。




