8.父
父の体調は、冬に入る頃にはさらに悪くなった。
船に乗ることはなくなり、朝の港へ出ることも少なくなった。
ある夜、私は父の部屋で、古い写真を見つけた。
若い頃の父が、船の前に立っている写真だった。
その隣には、まだ幼い私がいた。
父は笑っていた。
私はその写真を長い間眺めていた。
自分の記憶のなかにある父は、いつも無口で、表情を変えない人間だった。
しかし、写真の父は笑っている。
私は、その笑顔を覚えていなかった。
記憶にないものが、確かに過去には存在していた。
そのことが、妙に不思議だった。
私たちは、自分が覚えていることだけを、自分の過去だと思い込んでいるのではないか。
しかし、覚えていない出来事も確かにあったはずである。
私が知らない父。
私が知らない母。
私が知らない村。
そして、私が知らない世界。
私が生まれる以前から、世界は存在していた。
私が死んだあとも、世界は存在し続けるのだろう。
そう考えることはできる。
だが、その世界を想像しているのは、いま生きている私である。
私は、観測者のいない世界について考えた。
人間が一人もいなくなったあと、海は存在するのだろうか。
波は寄せては返すのだろうか。月は海面を照らすのだろうか。風は吹き、帆のない船を揺らすのだろうか。
おそらく、そうなのだろう。
人間がいなくなったからといって、世界が消滅する理由はない。
人間が生まれる以前にも海はあり、山はあり、風は吹いていたはずである。
人間は世界の始まりではない。
それなのに、人間は自分の認識を通して世界を理解しようとする。
世界は存在している。
そう考えることはできる。
しかし、その存在を確認するためには、何らかの観測が必要になる。
観測する者がいない世界について語ることはできても、その世界を実際に確かめることはできない。
私は自分の消失を考えることはできる。
だが、自分が完全に消失した状態から、何かを考えることはできない。
観測者のいない世界を語るとき、私はいつも、知らぬ間に自分の席を残している。
では、観測者が消えたあとに何が残るのか。
世界か。
存在か。
あるいは、残るという言葉さえ失われるのか。
私は考え続けた。
世界を考えるためには、自分が必要になる。
しかし、自分を考えるためには、世界が必要になる。
私と世界は、互いを前提にしている。
そのどちらが先に存在するのかを問うことは、卵と鶏の順序を問うことに似ているのかもしれない。
いや、それよりも厄介なのは、卵と鶏のどちらが先かを問う者自身が、すでにその世界のなかにいるということだった。
私は窓の外を見た。
夜の海は暗かった。
そこには、私が知っているものと、私が知らないものが、同じように存在していた。




