7.港
その年の秋、私は久しぶりに村へ帰った。
父の体調が悪くなったという知らせを受けたからである。
父は以前より痩せていた。
顔には深い皺が増え、歩く速度も遅くなっていた。それでも、朝になると港へ出て、船の様子を確かめる習慣は変わっていなかった。
「船はもう出さんのか」
私が尋ねると、父は首を横に振った。
「たまには出る」
「身体が悪いんだから、無理するなよ」
父は返事をしなかった。
その沈黙に、私は以前と同じものを感じた。
父は何も説明しない。
私が理解できないことを、理解させようともしない。
翌日、私は一人で港を歩いていた。
防波堤の近くに、一人の老人が座っていた。
老人は海を見ていた。
顔には深い皺があり、背中は少し曲がっていた。近くには古びた鞄が置いてあった。
私が近づくと、老人は私を見た。
「帰ってきたのか」
私は少し驚いた。
「私をご存じですか」
「昔、この辺りで見たことがある」
老人はそう言って、また海を見た。
彼はかつて村の学校で教師をしていたらしい。私も幼い頃、遠くから見かけた記憶があったが、名前までは覚えていなかった。
「海を見ているんですか」
私が尋ねると、老人は笑った。
「海を見る以外に、何がある」
「何か考え事でも?」
「考え事というほどのものではない。ただ、海があるなと思っている」
私は老人の隣に座った。
しばらく二人で海を眺めていた。
「あなたは、海が何だと思いますか」
私が尋ねると、老人は少しだけ眉を動かした。
「海は海だろう」
「それだけですか」
「それ以上、何が必要なんだ」
私は答えに困った。
老人は続けた。
「お前は、海が何であるかを知りたいのか」
「そうかもしれません」
「なぜだ」
「世界がどういうものなのか、知りたいんです」
老人は小さく笑った。
「人は、何でも知りたがるな」
「知らないままでいるのは、不安ですから」
「そうか」
老人は海に目を戻した。
「だが、海は、お前が見ていなくても海だろう。お前が名前をつけなくても、波は寄せる。お前が意味を与えなくても、潮は満ち引きする」
私は老人の言葉を聞いていた。
「だが、お前が見ていない海を、お前はどうやって知るんだ」
私は何も言えなかった。
老人は続けた。
「人間は、自分が知ることのできないものを、知っているように語る。知らないということを認めるのが、そんなに怖いのかね」
私は海を見た。
確かに、海はそこにあった。
しかし、それが私の見ている海と同じものなのか、私には分からなかった。
「あなたは、世界に意味があると思いますか」
老人はしばらく考えてから答えた。
「意味というのは、誰のためにあるんだ」
「人間のために、でしょうか」
「ならば、人間がいなくなれば意味もなくなるのだろう」
私は黙った。
老人は、足元の小石を拾い、海へ投げた。
小石は水面に小さな波紋を作り、すぐに消えた。
「だが、意味がなくなることと、何もなくなることは違う」
その言葉を聞いて、私は少し息を止めた。
「人間がいなくなったあとも、何かは残る。そう考えることはできる。だが、それを残ると呼んでいるのは誰だろうな」
私は老人を見た。
「あなたは、何もかも分からないと言いたいんですか」
老人は笑った。
「違う。分かることもある。だが、分かることがすべてだと思わない方がいい」
それから老人は、しばらく何も話さなかった。
私はその沈黙のなかで、父の言葉を思い出していた。
風は変えられん。
帆は調整できる。
父は世界を理解しようとはしなかった。
老人もまた、世界を説明しようとはしなかった。
ただ、海を見ていた。
私は初めて、世界を理解することと、世界のなかで生きることは、必ずしも同じではないのだと思った。




