6.憶
紗季と別れてから、私は仕事にも以前ほど興味を持てなくなった。
仕事を辞める理由はなかった。生活に困っていたわけでもない。職場の人間関係が悪かったわけでもなかった。
ただ、何かを続ける理由が、少しずつ分からなくなっていた。
ある日、私は会社の帰りに駅のホームで、自分の顔が窓に映っているのを見た。
疲れた顔だった。
その顔を見て、私は奇妙な感覚を覚えた。
そこに映っている人間が、本当に自分なのか分からなくなったのである。
もちろん、それは私の顔だった。
毎朝鏡で見ている顔であり、身分証明書に載っている顔であり、他人から私として認識されている顔だった。
しかし、私はその顔を見ている自分を、うまく説明することができなかった。
自分とは何なのだろう。
記憶か。
身体か。
名前か。
あるいは、それらを一つにまとめている、何か別のものなのだろうか。
私は自分の過去を思い出した。
幼い頃、父の船に乗っていた自分。
村を出る日に、父の背中を見ていた自分。
街で直人と酒を飲み、自由について話していた自分。
紗季と喫茶店で向かい合い、彼女の言葉を理解しようとしていた自分。
それらはすべて、確かに私の記憶だった。
しかし、記憶は変わる。
幼い頃に見た父の背中と、いま思い出す父の背中は、同じものではない。
あの頃、私は父を無口な人間だと思っていた。
いまは、父が何も言わなかったことに意味を見出そうとしている。
父は本当に、私に何かを伝えようとしていたのだろうか。
それとも、ただ言葉が少ない人間だっただけなのだろうか。
私が父に与えている意味は、私自身が作り出したものなのではないか。
そう考えると、過去というものさえ、確かなものではなくなる。
私たちは過去を思い出しているのではない。
現在の自分に都合のよい形で、過去を組み立て直しているのかもしれない。
そうであれば、私という存在もまた、記憶によって作られた一つの物語にすぎないのではないか。
私は自分の意志で生きていると思っていた。
しかし、その意志を作ったものが何であるのか、私は知らない。
生まれた環境かもしれない。過去の経験かもしれない。他人から受け取った言葉かもしれない。
それらすべてが混ざり合い、いつしか自分の意志という形を取っているのかもしれない。
私はそのことを直人に話した。
彼は以前より少し落ち着いた様子だった。仕事を変え、社会に対する怒りを完全に失ったわけではなかったが、何かを変えることの難しさも知ったようだった。
「じゃあ、お前はどうしたいんだ」
直人は尋ねた。
「分からない」
「分からないなら、分からないなりに動けばいい」
「それが自分の意志なのかも分からない」
直人は呆れたように笑った。
「そこまで考えたら、何もできなくなるだろ」
私は黙った。
「お前は、自分の意志が本当に自分のものだって証明できないと、何も始められないのか」
私は答えなかった。
直人は続けた。
「証明できなくても、選ぶしかないんじゃないか。選ばないことだって、結局は何かを選んでいるんだから」
私はその言葉を聞きながら、父の姿を思い出していた。
父もまた、風の正体を知っていたわけではない。
ただ、海へ出るときには帆を調整していた。
自分がなぜそうするのかを、いちいち問い直していたわけではない。
そのことを考えると、私は少しだけ、父のことを理解できたような気がした。
だが、それもまた、私の解釈にすぎなかった。




