5.疑
紗季とは、しばらく穏やかな時間を過ごした。
休日に食事をし、街を歩き、時には何も話さずに同じ景色を眺めた。
しかし、親しくなればなるほど、私たちは互いのことを理解できなくなっていった。
彼女が何かを話すと、私はその意味を考えた。
私が何かを話すと、彼女はその言葉の裏にある気持ちを探そうとした。
そして、いつしか会話そのものが、互いの内側を確認する作業になっていた。
ある晩、紗季は私の部屋で、窓際に置いてあったコップを手に取った。
「これ、いつからあるの?」
「覚えてない」
「ずっと使ってる?」
「まあ、そうだな」
彼女はコップを眺めていた。
「同じものを見ていても、見えているものって違うんだろうね」
私は彼女を見た。
「どういうこと?」
「私はこれを、ただのコップだと思う。でも、あなたにとっては違うかもしれない。誰かにもらったものかもしれないし、何かを思い出すものかもしれない」
彼女はコップを机に戻した。
「物そのものと、それに対して感じることって、別なんだろうね」
私は少し考えた。
「人間も同じなのかもしれないな」
「人間?」
「他人を見ているつもりでも、実際には自分の認識を通してしか見られない。相手がどういう人間なのか、本当のところは分からない」
紗季は黙っていた。
「それでも、私たちは分かったつもりになる。相手に名前をつけて、性格を決めて、こういう人間だと理解した気になる」
「それって、寂しいことだね」
彼女は言った。
「どうして?」
「分からないまま一緒にいることはできないの?」
私は答えられなかった。
その問いは、私が考えていたことの反対側にあった。
私は他人を理解できないことを恐れていた。
だから、理解しようとしていた。
しかし、紗季は理解できないままでいることを、必ずしも拒んでいなかった。
彼女にとって、他人とは完全に理解する対象ではなく、分からない部分を残したまま隣にいる存在だったのかもしれない。
それから数日後、紗季は私に別れを告げた。
理由は、特別なものではなかった。
私たちは互いに嫌いになったわけではない。ただ、一緒にいることが少しずつ難しくなっていた。
「あなたは、何でも考えすぎるんだと思う」
最後に会った日、彼女はそう言った。
「考えないと分からないこともある」
「そうだね。でも、考えても分からないこともあるよ」
私は何も言わなかった。
彼女は少しだけ笑った。
「分からないままでも、大切にできることってあると思う」
その言葉を、私は長い間忘れられなかった。
紗季が去ったあと、部屋にはコップだけが残っていた。
私はそれを手に取った。
透明で、硬く、冷たかった。
しかし、それが本当に何であるのか、私はもう分からないような気がした。




