3.街
街には、風がなかった。
正確には、風がなかったわけではない。ビルの隙間を通り抜ける風もあれば、駅のホームを吹き抜ける風もあった。
しかし、村の風とは違っていた。
村の風には、海の匂いがあった。潮の匂いと、濡れた木材の匂いと、どこか遠くの魚市場から流れてくる生臭さが混じっていた。
街の風には、そうしたものがなかった。
排気ガスや、コンクリートの熱や、人々の生活の匂いがするだけだった。
私は大学を出たあと、街で働き始めた。
毎朝同じ時間に起き、同じ電車に乗り、同じ道を歩く。仕事を終えると、疲れた身体を電車に押し込み、また同じ場所へ帰る。
最初のうちは、それを自由だと思っていた。
村では見られなかったものが、街にはいくらでもあった。さまざまな人間がいて、さまざまな価値観があり、それぞれが自分の人生を選んでいるように見えた。
だが、何年か暮らすうちに、私は妙なことに気づいた。
人々は自由を語りながら、互いに似たようなものを欲しがっていた。
同じような家を望み、同じような成功を目指し、同じような幸福を追い求める。違うことを恐れながら、個性的であることを求めていた。
そして、自分の人生を選んだのだと、誰もが信じていた。
ある夜、私は古い友人の直人と酒を飲んでいた。
直人とは村にいた頃からの付き合いだった。彼もまた村を出て、街で働いていたが、私とは違い、社会の仕組みに強い関心を持っていた。
ニュースを見ては政治に怒り、会社の制度に不満を漏らし、世の中の不公平を批判していた。
「結局さ、みんな自分で選んでるつもりなんだよ」
直人はグラスを置いて言った。
「何を?」
「人生をだよ。仕事も、金も、住む場所も。自分で選んだって言うけど、そもそも選べるものを誰が決めてるんだって話」
私は少し笑った。
「そんなことを考えても仕方ないだろ」
「仕方ない?」
直人は私を見た。
「仕方ないって言葉は便利だな」
私は黙った。
直人は続けた。
「生まれた場所も、家庭も、教育も、最初から自分で選べない。なのに、努力すれば何にでもなれるって言われる。選択肢を持っている人間と、持っていない人間がいるのに、結果だけ見て自由だとか自己責任だとか言うんだ」
私はグラスの中の氷を眺めた。
直人の言うことには、一理あった。
しかし、彼の話を聞いていると、どこか息苦しさを感じた。彼は世界を変えようとしていた。変えられないものを変えようとし、そのたびに世界の不公平を見つけては怒っていた。
「風は変えられん。帆は調整できる」
私は何気なく言った。
直人は少し笑った。
「それは誰の言葉だ」
「父の言葉だ」
「いい言葉だな。でも、俺は嫌いだ」
「どうして」
「風を変えられないと知っていることと、風を変えようとしないことは違うだろ」
直人は窓の外を見た。
街路樹の枝が、風に揺れていた。
「世の中には、誰かが吹かせている風もある。そいつらが風向きを決めているのに、吹かれている側だけが帆を調整しろと言われる。それは本当に正しいのか」
私は答えなかった。
父の言葉は、海の上では正しかった。
しかし、街のなかでも同じように正しいとは限らない。
あるいは、父の言葉を正しいと思いたかったのは、私自身だったのかもしれない。
直人は、最後にこう言った。
「帆を調整するだけでいいなら、誰も苦労しないよ」
その夜、私はなかなか眠れなかった。
父の言葉と直人の言葉が、頭の中で何度もぶつかっていた。
どちらが正しいのか。
あるいは、どちらも正しく、どちらも間違っているのか。
私は初めて、風というものが一つではないことに気づいた。




