2.風
父の船は古かった。
船体の塗装はところどころ剥がれ、甲板には長年の潮が染み込んでいた。港に並ぶ新しい船と比べれば、いかにも頼りない姿をしていたが、父はそれを買い替えようとはしなかった。
「まだ使える」
父はいつもそう言った。
私はその言葉が嫌いだった。
古いものに執着することが、必ずしも美徳だとは思わなかったからである。壊れかけたものを修理しながら使い続けるより、新しいものを手に入れた方が合理的に思えた。
しかし父は、合理性という言葉を好まなかった。
父にとって重要なのは、船が海に出られるかどうかだった。
ある冬の朝、私は父と一緒に港へ出た。
海は荒れていた。白い波が防波堤にぶつかり、細かな飛沫が風に流されていた。父は船の様子を確かめると、しばらく黙って海を眺めた。
「今日は出ないの?」
私が尋ねると、父は短く答えた。
「出ん」
「なんで?」
「危ないからだ」
私は少し不満だった。
せっかく早起きしたのに、海へ出ないのなら意味がないと思ったのである。
「風が強いなら、帆を調整すればいいんじゃないのか」
父は私を見た。
そして、ほんの少し笑った。
「帆を調整するのと、無理をするのは違う」
私は、その違いがよく分からなかった。
父は船の綱を確かめながら続けた。
「できることと、やるべきことは同じじゃない」
そのときの私は、その言葉にも興味を持たなかった。
父の言葉は、いつも私の理解より少し先にあった。
やがて私は村を出た。
街へ行けば、もっと多くのものがあると思った。人間も、考え方も、仕事も、人生の選択肢も、すべてが村より広いのだと考えていた。
父は私を引き止めなかった。
出発の日、父は港まで見送りに来た。
「身体に気をつけろ」
それだけだった。
私は、もう少し何か言ってくれてもいいのにと思った。
しかし、父は何も言わなかった。
その背中を見ながら、私は父という人間が少し分からなくなった。
父は私がどこへ行くのか、何をするのか、どのような人生を望んでいるのか、ほとんど尋ねなかった。
私の人生に関心がないのだろうか。
それとも、他人の人生を他人のものとして尊重していたのだろうか。
いまでも分からない。
ただ、父が最後に見上げた空のことを覚えている。
あの日も、風は吹いていた。




